(賞に出した短編を推敲して載せてます。完結。 お付き合いありがとうございました。) 車はゆっくりと、坂ビーチの駐車場へ入った。 広島の街灯りが美しいな… どんな時でも美しいものは美しい。 あるいは、私の悲しみが足りないんだろうか- 波の音がする。 車を停めた先生は何を話すでもなく、ゆったりと座って 私が落ち着くのを待ってくれている。 車内は暖房で暖かく、ただ波の音と 時折ラジエターのがんばる音がして、 私は私のままで、そこに居ていい そう言われいる気がして 暗く沈んで
車は高速の入り口へと吸い込まれていく。 夜の広島高速に車は少なく、車内には外国車特有の 低いエンジン音だけが響いていた。 「話したくなければ、話さなくていいし、 話したくなったら聴くし。まあ、聴くだけだけど。」 コウ先生の言い方はいつもこうだ。 甘くはない。 一見突き放す様でいて、隣には居てくれる。 それはどんな問題も本人にしか超えられないと、 自分もそうやって超えてきて知っている人の言い方だった。 甘いだけの言葉は誰にでも吐ける。 その方が耳障りの良い人もいるだろう。
(連絡すると言われても、連絡先知ってたっけ…) 暗い部屋に戻ると途端に体が重くて、 敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。 何も食べる気が起きない。 私が食べた所でこうめは食べられないのだ。 仕事っていうのはすごくて、目の前の球を打ち続けていれば時間は過ぎていく。だけれど、その世界にはもうのうのうと生きていた自分は存在していなかった。 自分だけが、暗い落とし穴に落ちた様だ。 意識はずぶずぶと、底の見えない暗緑色の沼の中へ 引っ張られる。息が、詰まっていく。 (豆粒くらい小さい
(あーやっぱり目腫れてるわ。) 一応メイクもしてみたけど、残念ながら全然隠し切れない。ぽってりとした瞼でアイラインは埋もれてしまった。仕方なく掛けた眼鏡が余計怪しさを増幅する。 「アレルギーみたいで〜」 と笑う顔もさぞ空々しかったに違いないけれど、小さな鍼灸院の同僚たちは見て見ぬ振りをしてくれたし、何より往診の担当だったのが救いだった。 一日の半分は一人でいられる。 幸い、往診先の患者さんたちは私の変化に気付く事はなく、 「ありゃあ、あんたぁ眼鏡とは珍しいねぇ」 と言わ
「残念ですが、心拍が確認できません。」 薄暗い部屋の中、黒と白の曖昧な線で描き出された モニターの中の小さな『我が子』は、ひっそりと、 それを孕む私にも分からないうちに成長を止めてしまっていた。 「おそらく十日ほどで自然に排出されます。」 自然に?排出…? 下腹のひんやりとしたジェルを拭き取る看護師さんはバツが悪そうに目を逸らしたまま頭を下げた。 「あの、生理みたいな感じですか。」 「そうですね。」 医師はそう珍しい事でもないという風にカルテに向かったまま、気持ちの1
◯つぼけんの話◯ 夢の中のつぼけんは 青春群像劇の主役の1人に選ばれたこと、 監督の意向で主役が順繰りに飲食店のバイトに立つこと 自分の写真が求人誌に載ったことを 恥ずかしそうに語っていた。 私は嬉しくてウンウンと話を聴くだけだけれど、 つぼけんは相変わらず菅田将暉に似た 小さな顔をほころばせてがんばるよと言っていた。 夢の中に繰り返し出てくる人ってなんなんだろう。 私はつぼけんに大きな恩義がある。 高校3年生まで私は日陰ものだった。 学校というところは不思議と日陰と日
天地鳴動して日本は既に人の住める土地に非ず、ほとんどの人が日本を去った中、来たるべき時の復活の為、日本各地のコトノハを封印する任に当たる者たちが居た。 いよいよ最後の封印が終わり、崩れ行かんとする建物の中で、『封印者』たちは己の命が助からない代わりに、次に生まれ来る子孫の苗字に、漢字一字の“質”を授けることを、首領から許されたのである。 仲間たちは各々「生」「川」などを書き残し既に去った。私は、急に訪れた素敵な贈り物に戸惑いながら… そこに『希』と、書き記した。 とい
◯水曜日のマダム節子◯ 「ちょいとそこのお嬢さーん」 お嬢さんというには一回りは多い自分の年齢を自覚しているのに、その涼しげな声に思わず立ち止まってしまった。 飲み屋以外は閉まり、照明だけが煌々とした尾道のアーケード街を、今夜はどこに泊まろう…と路頭に迷っているタイミングで。 恐る恐る振り返ると、商店街の2階の窓からひらひらと手を振る竹久夢二風のご婦人が目に入って、 「マズイ」 と直感した。そのご婦人がちょいちょいと手招きしてきたので階下に目をやると、階段の脇に一刀彫りの『マ
これはFacebookに50人限定投稿したら、いいねが18件なのにコメントが70件付いた私の過去のお話。
◯火曜日の原田さん◯ 火曜日の開店準備は階段を降りるリズムからして軽い。私の愛するカフェ界のアイドル、原田さんが来る日なのだ。アイドルと言うと語弊があるか、妖精と言った方が正確かもしれない。いや、妖精というよりコロポックル…? 原田さんはカフェを愛する、おじちゃんなのである。 原田さんは地元では有名人だ。 まず絵を描く。子どもが描いたようなシンプルな線で、ギターやポットが踊り出す。上手いのかどうか全く分からないけれど、原田さんにしか描けない味のある線を、とにかく丁寧に時間を
◯ 月曜日のソラくん◯ 一週間の始まりが気のおけないお客さんだったなら、そのお店は幸せ者と言えるんじゃないか。 その意味ではうちの店は今のところ幸せ者だ。オープン以来、月曜日いちばんのお客さんはソラくんと決まっている。 morning standなんていうちょっと変わった時間帯のお店を開く以上、すぐにお客さんがつくなんて期待はしていなかった。オープンの日の朝も、まだ空に静かな藍色が残っていて、果たしてこの町にこの店が生まれ出ようとしている事を知っている人なんて、ひとりでも居る
〜プロローグ〜 暗かった窓辺に朝の気配が入り込み、波打つ硝子が翡翠のような色を湛えるこの時間が好きだ。早起きな小鳥たちが一斉に太陽の訪れを讃歌する。無垢な命が朝を悦ぶさまに、少し責められたような気持ちを孕みつつ、音の増えていく世界を布団の中から耳で愉しむ。 その度に「春はあけぼの〜…」は名作だなと思うのだ。故郷の“やうやう白くなりゆく山ぎは”がまぶたの裏で色付く。この町なら、眼下に流れる尾道水道に朝日が差し込むようすがそれに当たるのかもしれない。それでも「春」の部分しか、こ