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「お金と芸の使い道は、安土桃山に聞け」─橋本治『ひらがな日本美術史3』

「長谷川等伯は、その『松の絵』で囲まれた部屋の中に、“閉ざされた室内空間”であることを忘れさせるような、『ボーッと広がる空間』を設計しようとした─私はそう思う。だから、そこから生まれた《松林図屏風》には、渺茫とした“空間の広がり”があるのである。その画面に囲まれた部屋の中で、我々は一々“絵”を見るだろうか?その絵を見るために、一々部屋のへりを歩き回るのだろうか?部屋の真ん中に座って、一々その体を回転させて四方を見るのだろうか?長谷川等伯の『松の絵』は、そんな野暮を笑うだろう。もしもこの《松林図屏風》が襖絵になっていたら、我々はその部屋の中で、ただ“渺茫たる広がり”を感じるのである。それは、“見る”ではない。“聴く”に近い。霧に包まれた松林のどこかから、トランペットが流れて来る。低いドラムの音も聞こえて来る。《松林図屏風》は、その空間を切り取って出来た屏風なのである。」

橋本治「ジャズが聞こえるもの」
(『ひらがな日本美術史3』)

橋本治『ひらがな日本美術史3』は桃山時代が中心です。冒頭引用した文章は、表紙にもなっている長谷川等伯筆「松林図屏風」の章から。
この作品は屏風という形で残っているけれど、もともとは屏風より大きい襖絵または壁貼付絵だったことが紙継ぎ(のズレ)からわかります。
“美術”というと、じっと見たり鑑賞することが“正しい”態度のように思われがちですが、もともと家の調度としてあったものに対する接し方は“見る”ではなく、その作品が作り出す“空間の広がりを感じる”、今で言うVR(仮想空間)のようなものなのです。

「《松林図屏風》がそうであったように、この《楓図襖》《桜図襖》も、本来はもっと上下に大きくて、横の広がりも大きかったのだが、我々は、今やその『空間の広がり』を見ることが出来ない。我々は、今に遺された『美しい絵の断片』だけを見て、それが十分に美しいものだから、その美しい絵の断片が、かつて『広大なる美の空間を作り出していたものの一部』だということを忘れてしまう。その絵の前に立つ我々は、それをうっかりと“鑑賞”してしまって、それが、かつては『人を取り巻く空間の一部』だったということを忘れてしまう。」

橋本治「空間を作るものの変遷」
(『ひらがな日本美術史3』)

当時その作品がどう見られていたかを知るために、どのような空間に置かれていたものだったのかを知る必要がある。だからそれに続く「空間を作るものの変遷」という章があります。

私が面白かったのは、「『美術品』と言われるようなものは、そもそも『誰かの所有物』だったような物」だという話からの、橋本治が美術品を“自分の物”にしたら、という話です。
東大寺の南大門や平等院鳳凰堂が橋本治の物だったら、彼はそこにペンキを塗りたくなるという(美を愛する心とはまったく別のところで)。松林図屏風が家にあったら、コーヒーをぶっかけそうな予感があるという。

「たとえばの話。土地は別にして、東大寺の南大門や平等院の鳳凰堂という“上物”だけを『やる』と言われたら、私の場合、ちょっと危険なことになる。こういうのが“自分の物”で、自分がそこで寝起きしていたりすると、どうしても私は、これにペンキを塗りたくなるからである。『なんでそんなことをする』ときっと言われるだろうが、美を愛する心とはまったく別のところで、私は浪人時代の夏に家でペンキ塗りばっかりしていたから、塗料が剥げている巨大なものを見ると、腕がうずくのである。『自分の部屋を自分の好きなように模様替えしてみたい』という欲望があなたにはないのか?平等院の鳳凰堂を、『ちょっとイメチェンさせてみよう』と思って、ピンクとペパミントグリーンにして『マイアミ風ピンクフラミンゴ堂』にしたら、いくら自分のもんでも怒られるだろうなァ‥‥。『東大寺の南大門を全部金色に塗り直して、そこにネオンつけて、二階をロフト風の喫茶店にしようかな‥‥』とか言ったら、きっと殺されるな。『今まであなたは、どういうつもりでこの文章を書いて来たのですか!』なんて、真面目な人から抗議されるな。でも、私という人間は、それが『自分の物』なら、美を愛する心とはまったく別のところで、そういうことをしかねない人間でもある。『自分の物なら、“芸術”としてかしこまって距離を置いているのはいやだ。自分とフィフティ・フィフティでつきあえなきゃいやだ』と考える。」

橋本治「そこら辺にあるもの」
(『ひらがな日本美術史3』)

金があればセンスがよくなるかと言えば当然そんなはずはなく、審美眼は養わなければ身に付かない。

「貧乏な人間とは、いい物を見たって、そうそう『ほしい』とは思えないものなのである。『自分の現状』というものを考えたら、『ほしい』と思う前に、まず『身分が違う』という発想をしてしまう。だから、貧乏な人間が『いい物』を見たら、まず驚くのである。驚いて、そのまんまである。その『驚いた』という記憶が、その後に金持ちなんかになったりした時、当人をへんに刺激するのである。それで、『目がくらみそうな物』を見ると、やたらと買いまくらずにはいられなくなるのである。金持ちになった時期の日本人がロクな物を買わなかった理由はこれであろう。私は、日本人が貧乏だった時期と、金持ちになった時期と両方知っているから、そういうことが言えるのである。だから、金があろうとなかろうと、『自分はこれがほしいか?』というシミュレーションをして、いい加減なものに驚かされないだけの度胸を養うのも必要なのである。『審美眼』とはきっと、この度胸のことだ。」

橋本治「そこら辺にあるもの」
(『ひらがな日本美術史3』)

橋本治が知っていると書いた、日本人が金持ちになった時期は1980年代のバブル。金余りの同時代人(の金の使い方)を見ていた橋本治の念頭にあったのは、遡ること約400年前の元祖バブルであったはずだ。「昔はよかった」というだけではない。何が違うのか、何が日本人を醜く見せているのかを橋本治は考えていた。それが『ひらがな日本美術史3』の締めくくりの一文に表れている。

「日本人の底力というものは、もしかしたら、『どんなものでも、飾り方次第で立派に飾れる』という、そのデザイン処理能力にあるのではないかと、私は思う。その能力をなくした時、『飾るべき価値ある物』などというつまらない信仰に走った時、日本人のセンスは最悪になる。
安土桃山時代から江戸時代の初期まで、日本の文化は贅沢の極限に走った。しかし、この時代の日本人は、あきれることに、センスがよかった。『ああ、昔の日本人は、金があってもセンスがよかったんだ』と思うと、なんだか涙が出そうになる。失われた安土桃山時代を振り返る時、私はそれだけが悔しいのである。」

橋本治「センスのいいもの」
(『ひらがな日本美術史3』)


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