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橋本治と日本仏教史

「たとえば、私が高校生で、自分の周りにいるオッさんやオバちゃんや、兄ちゃんや姐ちゃん達に違和感を感じている。『一体、この人たちってなんなんだ?自分のいるところって、そもそもどんなところなんだ?』という疑問を感じている。私の、『日本人の中にある仏教ってなんなんだ?』という疑問は、その疑問とシンクロしている。高校生の私が、『日本仏教史』の類を読むのなら、仏教への疑問が、『オレの周りにいる見知らぬ人達ってなに?』の答と重なるものだと思って読む。因果なことに、これは今でも私の中に生きている根本体質だから、動きようがない。」

橋本治
『橋本治という行き方』

自分が生まれ落ちた環境にいる自分の周りの人たちに対して、おそらく誰しも一度は疑問を持つと思います。私も例外ではなく疑問を抱えながら育ってきました(若干今でも)。私の場合、その答えを仏教に求められるかどうかはまだわからないけど、橋本治がだんだん古典に傾注して行ったり、たびたび日本の歴史を遡っていくのはそういう理由もあるのか..と思ったりしました。

末木文美士著『日本仏教史』の解説を橋本治が書いていて、その後日談が『橋本治という行き方』に書いてあります。
『この本には明治以降の仏教がない』と解説で書いてしまったら、その後何年か経って、まさにそれに応えるような“明治以降の仏教”に該当する部分を論じた本が献本として送られてきた、と。

「この《日本仏教史》には、“明治以降の仏教”という部分がありません。私が一番読みたいと思うのは、その“まだ書かれていない部分”です。そしてそれは、まだ書けないのだと思います。それを書く準備として、この《思想史としてのアプローチ》という副題を持つ本があるのです。『我々はこうだった』ということがわからなければ、『我々はこうすればいい』という方向性は開かれないでしょう。果たして我々はどうだったのか?
『原因があってこその結果である』─この考え方こそ仏教の根本で、我々はまだ近代以前という“因”の部分を十分に把握していなくて、だからこそ近代以降の思想状況という“果”の部分がよくわからないのです。果たして我々はどうだったのか?─そのアプローチは、やっと今始まったばかりなのだと思います。」

橋本治による解説
(末木文美士著『日本仏教史』)

この本は、「『“日本の仏教”というものは、よく考えるとそもそものブッダの教えからは遠く離れて、独特のものになってしまったものである』という前提に立っていると思います。そして、『“日本の仏教”がそうなってしまったのは、とりもなおさず日本人のせいで、だからこそ、日本人のものの考え方(=思想史)を考え直す必要があるし、“日本の仏教”の中から、日本人のものの考え方を拾い出す必要がある』という本だと思います。」

橋本治による解説
(末木文美士著『日本仏教史』)


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