本音は「書きたくないこと」の方に宿っている
昨年秋、フリーライター・編集者の青山ゆみこさんが主催する「個人向け文章添削講座」に申し込んだ。
多方面から評判を聞いていた通り、自分の書いたものをここまで読み込み、理解しようと心を砕いて添削を入れてくださったことに、感動した。同時に、課題を通して「書く」という行為の難しさを実感し、それに費やした思考と時間は、いただいた添削内容と同じくらい意義があったと思う。
仕事では、取材対象の方々の言葉を掬うことがほとんどだから、彼らの語った言葉を手がかりにしていける(もちろん、どこまで核心を引き出せるかという難しさはありますよ)。
でも、対象も自分、書くのも自分なら、内容はいくらでも繕える。課題を書いていて、自分が具体的な言及を避けた箇所、あいまいにしようとした部分、よそゆきに装おうとした表現にこそ「伝えたいこと」があると気付けた体験だった。
きっと、本音は、書きたいことではなく「書きたくないこと」の方にあるのだと思う。
《添削を踏まえ完成させたエッセイはこちら》
ふだんから、過去のエピソードや実在の人物を織り込んでエッセイやコラムを書いている人は本当にすごいなぁ。
自分への印象だけではなく、書かれた人がどう感じるか、その出来事を知る人がどう思うか、受け止める覚悟と責任が必要だもの。
話を戻して、添削をいただいて期限内に加筆修正版を提出すれば、感想をいただけるとのことだったのに、恥ずかしいことに年をまたいでしまった。
なんというか、著書はもちろんがっつり携わった出版物が出るといつも、発売直後は「直視できない」気持ちになるんですよね...。
「ミスがあったらどうしよう」という恐怖もさることながら、長所も短所も知りすぎていて「ちょっと距離を置きたい」というか。服部みれいさんが以前何かの本で「発売した後の著書は”元彼”みたい」と表現されていたけれど、まさにそういう感じ!
今回の課題文もそれと同じで、書くことに費やしたエネルギーの濃密さに疲れ、しばらく読めなくなってしまっていたのでした。
書き上げた勢いのまま、加筆修正を加えていたらまた違った作品になったかもしれないな。
申し訳なさすぎて今さら完成原稿を送るのもご迷惑な気がしてしまい、青山さんがどこかでこれを目にすることがあったら、「ああ、こんなふうに仕上がったのね〜」と感じてもらえたらと思っています。
[一日一景]
___1日1コマ、目にとまった景色やもの、ことを記しておきます。
ヒヤシンスのつぼみがみるみるほころんできました。
球根花は本当にかわいい。
1月半ばにホームセンターで買って以来、うんともすんともいわないのでちょっと心配していたけど、植物は、来たるべき時が来ればちゃんと成長のステップを上がっていく。