岩波少年文庫を全部読む。(18)寄る辺なき少年の、ありえないけどあらまほしき都市小説 エーリヒ・ケストナー『エーミールと探偵たち』
少年の寄る辺なさが刺さる
冒頭で少年が窮地に陥って寄る辺ない感じになってしまうお話に、僕は弱い。
バラージュ・ベーラの『ほんとうの空色』(1925。徳永康元訳、岩波少年文庫)とか、三木卓の(いちおう大人向き小説ということになっていますが、ヤングアダルト小説と見なしていいでしょう)『かれらが走りぬけた日』(1978。集英社文庫)など、何度読んでも胸が締めつけられます。
スピルバーグが映画化したジェイムズ・G・バラードの自伝的小説『太陽の帝国』(1984。山田和子訳、創元SF文庫)が忘れられないのも、きっとそのせいです。
なんなら窮地というほどでもなくうっすらと寄る辺ない宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』(1931未完。岩波少年文庫)でも、銀河鉄道に乗る前の部分がいちばん好きなのです。
エーリヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』(1928)も少年の寄る辺なさから出発する作品で、『ほんとうの空色』『銀河鉄道の夜』と同時代に書かれました。
大戦間ベルリンを舞台とする都市小説
主人公エーミール・ティッシュバイン12歳は、ノイシュタットの実科学校(10歳から16歳くらいまで。卒業生は大学に行かないことが多い)の生徒。父親は早く病死しており、美容室を経営する母と暮らしています。
休暇に母方の祖母と従妹ポニー・"ヒュートヘン"・ハイムボルトを訪ねて、ベルリンに「上京」します。に会いに行くことになります。そして汽車で居眠りしている間に、相席のマックス・グルントアイスなる人物に現金140マルクをすり取られてしまうのです。
文なしで欧州の(敗戦国とはいえ)メトロポリスの玄関口・ベルリン動物園駅にひとり降り立ったエーミール少年は、地元の少年たちのいわゆる「チーム」のネットワークの力を借りて、グルントアイスの跡を追っていきます。
ベルリンの少年たちの義侠心は冷静に考えれば「生物的にありえない」レヴェルのものに思えます。主人公を理解してくれる大人が都合よく登場するのもご愛嬌。大戦間ベルリンを舞台とする都市小説としての魅力の前には、そんなことはさほど気にならなくなる。
ベルリン「一座」の粋な連携プレイ
というか、ケストナー作品の多くは、「ありえない」と「あらまほしい」とのバランスが絶妙で、「自分もかくありたい」と読者に思考・行動の変容を上手に促す出来に達していると言っていいでしょう。
これがなまじの「きれいごと」とは一線を画した、「地に足のついたきれいごと」であることについては次回、続篇『エーミールと三人のふたご』の回で実例を挙げる予定です。お楽しみに。
ベルリンで出会う人物たちは、行動のうえでも、またプロット構成のうえでも、絶妙な連携を見せます。
豆腐屋みたいな空気袋つき喇叭を持ち歩く〈クラクション少年〉グスタフ、頭脳明晰な司令官の〈教授〉ことテーオドル・ハーバーラント、尾行と連絡のエキスパート〈火曜日〉(ディーンスターク)などの少年たち、ノイシュタット地区を担当するハインリヒ・イェシュケ巡査部長、そして懐の深い祖母と活発な従姉。
まさに「一座」と呼ぶにふさわしい顔ぶれです。
語りの自己言及
この作品はまた、冒頭に長々とした作者自身のイントロがあって、そこで作者=語り手ははっきりとしたひとりの人格を読者に印象づけています。このおじさんの語りになら、信頼を置いてついていくことができるだろう。そのような親しみを、年若い読者に感じさせ、その心を開くのです。
さらにこの〈ケストナー〉さんは、ベルリンで展開するストーリーに新聞記者として姿をあらわします。まずは前半、お金を失った主人公にお金を貸し、終盤には少年たちの活躍を記事に取り上げたりと、思わぬメタフィクショナルな形で主人公たちをサポートします。
北杜夫はトーマス・マンなど20世紀ドイツ文学の技法やセンスを日本語でトレースしようとした、珍しい小説家です(広く「20世紀ドイツ語文学」とすれば、カフカの影響を受けた日本の小説家ならたくさんいる、ということになりますが)。
その『さびしい王様』を筆頭とする若年層向けの作品には、間違いなくこのケストナー流の洒脱な自己言及が見られるのです。
Erich Kästner, Emil und die Detektive (1929)
2000年6月16日刊。ヴァルター・トリアー挿画、池田香代子訳。訳者あとがきを附す。
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