岩波少年文庫を全部読む。(9)徹底して「どこにもいかない」物語のはずだったのに アラン・アレグザンダー・ミルン『プー横丁にたった家』
『クマのプーさん』刊行後、ミルンは詩集『クマのプーさんとぼく』(1927。小田島雄志+小田島若子訳、河出書房新社)、ついで本書(1928)を刊行します。
詩集2冊、物語2冊で構成された《プーさん》シリーズ全4作の最終篇です。
徹底して「どこにも行かない」物語、でも…
たしかに、成長することはすばらしい。たとえその成長に痛みが伴っても。
でも、『クマのプーさん』を読むと、物語に主人公の成長は必須ではないとわかります。
むしろ「物語には主人公が成長することが必須である」という思いこみが筋(プロット)の運動を窮屈にしてしまいかねない、ということもわかります。
プーさんは失敗し、イーヨーはぼやき、クリストファー・ロビンは受け止める。『クマのプーさん』の物語は、徹底して「どこにも行かない」物語で、それはこの『プー横丁にたった家』でもほぼ同じです。最終章を除き。
旅立ちの気配
『プー横丁にたった家』最終章で、クリストファー・ロビンは、
と言明します。doing nothingを続けるかぎり、彼らはどこにも行かないですみます。
マーク・トウェインの『アーサー王宮廷のヤンキー』(1889。大久保博訳、角川文庫)の映画化『夢の宮廷』で、主演のビング・クロスビーは名曲"Busy doing nothing"を歌いました。
僕はこの曲をデイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンの刺戟的なカヴァーで知りましたが、しばらくのあいだこれをディズニーの『プーさん』アニメの曲だとばかり思っていました。
さて、『プー横丁にたった家』の最終章でも、旅立ちそのものは記述されません。しかし、ここにだけは、《プーさん》シリーズの他の作品にはない、あきらかな旅立ちの気配が見えます。
登場人物がそんなことを思ったら、それは物語が終わりに近づいている証拠、そして彼らの成長が訪れた証拠なのです。
この旅立ちの気配は、高橋留美子『うる星やつら』終盤近く、どんな未来を望むかと尋ねられた三宅しのぶが、みんながいまのままでずっといたらいいと思う、と答えたのと同じです。
この場面を読んだとき、8年以上の長期間続いた『うる星やつら』にもついに「最終回の気配」が漂い始めたのだという実感におののいたものです。
ゲーテの『ファウスト』第2部終盤同様、
という言葉こそ、時を決定的・不可逆的に動かしてしまう呪文だったんですね。
イーヨーと大江健三郎、トラーと金井美恵子
小学校時代に本をあまり読まない子どもだったのに加えて、前回書いたような事情もあって、僕は《プーさん》シリーズを読むのがたいへん遅れました。
それで、本シリーズの重要キャラクターである、少々悲観主義的な驢馬のイーヨーの名前は、大江健三郎の小説で知ったのです。
『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969。新潮文庫)で、作者自身を思わせる主人公は息子(作曲家・大江光がモデル)を、《プーさん》シリーズの驢馬(の縫いぐるみ)〈イーヨー〉の名前で呼んでいます。
ウィリアム・ブレイクの詩『ミルトン』(1804。壽岳文章の抄訳が岩波文庫版『ブレイク詩集』にある)をモティーフにした連作短篇集『新しい人よ眼ざめよ』(1983。講談社文庫)の一篇「落ちる、落ちる、叫びながら…」では、イーヨーは主人公の目の前でプールで溺れかけます。
「『罪のゆるし』のあお草」(1984。『いかに木を殺すか』所収、文春文庫)や『人生の親戚』(1989。新潮文庫)でも〈僕〉が長男ヒカリ(あるいは光)をイーヨーと呼んでいます。
また『キルプの軍団』(1988。岩波文庫)や連作『静かな生活』(1990。講談社文芸文庫)ではイーヨーは〈兄〉として登場します。
『静かな生活』は伊丹十三によって映画化され、大江光が音楽を担当、イーヨーを演じた渡部篤郎は日本アカデミー賞新人賞を受賞しました。
前回書いたように、ミルンが『クマのプーさん』を書くやりかたは、息子クリストファー・ロビンとその縫いぐるみたちを使った「ブリコラージュ」だったのだと思います。
いっぽう大江健三郎も、私小説的なものであれそうでないものであれ、ある時期以降の作品は、息子・大江光をはじめとする自身の家族を使った「ブリコラージュ」になっています。
ふたりとも、息子に導かれて創作しているわけです。
なお、大江健三郎の短篇小説「僕が本当に若かった頃」(同題作品集所収、講談社文芸文庫)の題は、《プーさん》シリーズ第1作である詩集『クリストファー・ロビンのうた』(1924。小田島雄志+小田島若子訳、河出書房新社)の原題When we were very Youngをもじったものでしょうか。
ちなみにもう1冊の《プーさん》詩集『クマのプーさんとぼく』の原題はNow we are Six(『僕たちはもう6歳』)です。
『プー横丁にたった家』で新たに登場する虎のトラー(Tigger)の名も、日本文学で知りました。『遊侠一匹 迷い猫あずかってます』(1993。新潮文庫)で登場した、金井久美子さん・金井美恵子さん宅の猫トラーです。
金井家のトラーはその後『猫の一年』(2011。文藝春秋)にいたる金井美恵子さんのエッセイに登場し、読者にとっておなじみの存在となっていました。
(2022年8月28日追記)2冊の物語集と岩波書店版『プー』絵本との対応
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