岩波少年文庫を全部読む。(1)僕が『星の王子さま』に選ばれなかったわけ アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』
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1943年、『星の王子さま』は仏英両語版で刊行されました。原題は『小さな王子(大公)』。装画も作者アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ自身の手になるものです。
10年後、内藤濯がこれに〈星の〉〈さま〉を入れて訳しました。この訳題が功を奏したか、翻訳文学史上に残るロングセラーとなりました。
2000年に岩波少年文庫が何度目かのリニューアルをおこなったとき、刊行順とは異なる新しい通し番号が振られました。そのとき、1番となったのがこの『星の王子さま』でした。
異星からの来訪者
この物語は、語り手である飛行士が砂漠に不時着したときにはじまります。飛行士は不時着の翌日に、ひとりの少年と出会います。彼は遠く離れたある小さな星のプリンスでした。
この物語のかなりのページ数は、王子が飛行士に語る身の上話に割かれています。故郷の星で、世話していた美しい薔薇の花との仲がうまくいかなくなって、王子はいわば家出(星出)してきたのでした。
彼は6つの星でさまざまな人との出会いと別れを重ねます。この部分のパラドックスや諷刺は、エーリヒ・ケストナーがその11年前に書いた『五月三十五日』(高橋健二訳、岩波書店《ケストナー少年文学全集》第5巻)を思わせます(『五月三十五日』はこんなに傑作なのに、どうして岩波少年文庫にはいってないんだろう)。
そして王子さまは1年近く前に地球に降り立って、蛇や狐(作者は狐[renard]と書いていますが、『ぼのぼの』や「けものフレンズ」で有名な「フェネック」だと思われます)とめぐり逢います。
王子は、飛行士とともに砂漠の井戸を探し出します。そして物語の最後、飛行機の故障が直った翌日に、蛇の力を借りて(?)故郷の星に「還っていく」のです。
子どものうちに読んでおくべきだったか
この作品は文明批評的だったり哲学的だったり、さらには当時の第2次世界大戦の状況を仄めかしていたりするせいで、「大人向け」と言われたりもします。
キャラクターたちは要所要所で、箴言のような、警句のような一般論を口にします。いちばん有名なのは、狐のつぎの台詞でしょう。
たしかに、大人が本作を読んで得られるメッセージ的な理解は、子どもが読んでも得られない部分があります。それに大人になるとよくわかることも多い。
たとえば、王子さまは地球来訪前、故郷の星で「理解のある彼くん」を長年やっていたのです。どういうことかというと、
故郷の星で、王子に依存しながらも、愛を試すような我儘で王子を振り回す薔薇の花は、マノン・レスコーや『グレート・ギャツビー』のデイジー以上の地雷女ぶりです。
それが厭になって家出してきたくせに、やっぱりその花のもとに帰っていこうとする王子の男心も哀しい。
バラにとって王子さまはいわゆる〈理解のある彼くん〉だったんだな。
でもほんとは、そういうことはわからないまま、子どものうちに本書に慣れ親しんで(狐流に言えば本書を「飼いならして」)おくほうが、きっといいのかもしれません。
というのも、『星の王子さま』という作品は、ある種の人々にとっては子どものころに出会った「一生の宝」であるようです。彼らは本書について、「自分を支えてくれた」とか「宝物」とか「理想」とか、果ては「バイブル」とか、かなり強めの讃辞を寄せています。
僕は『星の王子さま』に選ばれなかった
いっぽう僕はこれを子ども時代に読みませんでした。そもそも、子どものころ本というものをさほど読まなかったからです。岩波少年文庫もすべて大人になって読みました。
大人になって『星の王子さま』を読んでも、どこかピンときませんでした。
いや。前節で触れたメッセージ的な部分は非常によくわかる気がするし、なんなら大いにうなずいて読んだのです。たいへんすぐれた文学作品であろうとは思います。
ですが、「本総体として」見たときに、体が動かされない。僕向けではなかった。いろいろすごいなとは思うのですが、ある種の人々がかなり強めの讃辞を寄せていることを知っていたのがよくなかったか。なんか読むのがプレッシャーだったのです。僕はどうやらこの作品に選ばれなかったようです。
「ファンに『星の王子さま』を語らせるとだいたい「宝物」か「バイブル」になってしまって重い」現象はよく観測されています。直径20kmの中性子星も高密度で重力が凄いので、家くらいしかないとされる王子の星は重力がとんでもないのかもしれません。
『星の王子さま』の副作用
「バイブル」「宝物」のような強い言葉による思い入れの表明はだれしもやることです。
けれど、音楽や漫画や映画に比べ、小説や童話など文字メインの物語の本は、宝物なりバイブルなりの値札をつけると、そこで聞き手とのあいだになんらかの緊張を生む傾向があると感じます。
それらの言葉は未読の人には重く、ハードルを上げてしまいます。未読の人は、自分の反応が値踏みされていると感じることもあるでしょう。
悪意のない言葉ではありますが、社交上無粋な言葉であるとも言えます(もちろん口調や表情、相手とのそれまでの間柄によって、いくらでも魅力的な発話となりますが)。
『星の王子さま』関連の書籍にも、なんというかファンクラブ会報のようなものが多いと感じます。
ニュートラルな他者や平場の未読者、あるいは僕のように「メッセージ的な部分はわかるが本総体として体が動かされない」読者は、どうやら最初から相手にカウントされていないのです(そうじゃない本もありますけど)。
そもそも日本語訳が20種類以上あるっていうのも怖い! しかも他の訳に文句つけてる訳者もいるというのがまたカルト感が強い!
選別への誘惑
本作の冒頭、飛行士の思い出話によると、幼児期の彼は、象を呑みこんで体型が変わってしまった蛇の絵を描きました。それを見た人は全員、その絵を帽子の絵だと決めつけてしまうので、彼は失望します。
飛行士は長じてなお、会った人が〈ほんとうにもののわかる人かどうか〉を知るために、相手にその絵を見せるのですが、だれひとりその正解を言ったものはいませんでした。
砂漠で初対面の王子がそれを象を呑んだ蛇の絵だと気づくまでは。
僕は、この場面にこそ本作の副作用が起因していると思います。
相手が〈ほんとうにもののわかる人かどうか〉を知るために、テスト用紙を持ち歩いて判別するような人、僕は怖いな。
自分が査定する側だという自信がおもに怖い。
どう考えたって僕は「じゃないほう」に分類される人間ですし。
『星の王子さま』は「子どもvs.大人」、「心で見る人vs.目で見る人」という分割を主張しています。そして、「心で見る人」を選別するような構造になっています。
この本を読んだ人の、「自分を支えてくれた」とか「宝物」とか「理想」とか「バイブル」といった強い言葉は、『星の王子さま』という本を(象を呑んだ蛇の絵のように)引き合いに出して、これがわかるかどうかで人を選別するかのように響きます。ちょっと太宰治作品の副作用に似てるかも。
事実、『星の王子さま』を〈宝物〉と呼んだある学者は、きわめて選別的・差別的な発言で知られる人でした。彼女の目には、現実になされている差別が見えていないのでした。
『星の王子さま』がすぐれた文学作品であることは否定できません。
しかし、強い副作用を生む側面が僕はどうしても気になってしまいました。読者として本に選ばれなかったようです。
筆名が「千野帽子」だからダメだったのかもしれません。「千野象を呑んだ蛇」という筆名にすべきだったでしょうか。
祝・岩波少年文庫創刊70周年
2020年、岩波少年文庫が創刊70周年を迎えました。
これを勝手に記念して、全タイトル(少なくとも、なんとか入手できたもののすべて)を読みたい!と思いました。
この連載が少しでも長く続くよう、いや、全タイトルを完走できるよう、みなさん応援してください。
(初回で少し長くなりましたが、次回以降は1,000〜1,500字くらいを予定しています)
(初出「シミルボン」2020年10月1日)
Antoine de Saint-Exupéry, Le Petit Prince (1943)
挿画も作者による。巻末に「訳者あとがき」(1973年初秋)と編集部附記(2000)を附す。
1953年3月15日刊、2000年6月16日新版。
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読まず嫌いが世界〈文學〉を読んでみた
『読まず嫌い。』(角川書店)の増補「解体」版。 筋金入りの読まず嫌いが体を張って世界の〈文學〉と、それを読むための「補助線」になってくれる…
岩波少年文庫を全部読む。
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