遊戯の終わり

【期間限定無料】最後に小説を読んでいるのはだれか?──フリオ・コルタサル「続いている公園」(3)

前回書いたように、僕ら読者は、いわゆる「三人称」小説の作中世界の情報を、その語り手から直接得ることもあれば、作中の視点人物を経由して得ることもあります。

 いま話題にしている「続いている公園」のばあい、作中世界だけでなく作中作の世界の情報も、作中で小説を読んでいる農場経営者である〈彼〉の視点で入手しているわけです。

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 そして「語り」と「視点」は分けて考えよう、という話で前回は終わっていました。

視点人物の入れ子

 前回も書いたのですが、「続いている公園」の語りは単独の視点人物の視点に固定されている、とひとまず言うことができるのですが、この説明に違和感を抱く人もいると思います。

 「続いている公園」の途中まで、〈彼〉が読んでいる作中作の内容を報告しているんですよ、というマーカが存在していました。
ストーリーを追っていくうちに〉
〈会話が何ページにもわたって続く〉
物語は少しのたるみも見せず展開していく〉
といったようなものです。

 それが最終段落になると、それまでにあったそういうマーカは、いっさいなくなります。小説内小説(虚構内虚構)の世界の記述だけになる。読者は読書中の〈彼〉の身体を忘れて、〈彼〉が読んでいる作中作の世界に直接立ち会う感じになります。
 それはちょうど前半で、

たちまち小説の架空の世界に引き込まれた。読み進むうちに、まわりの現実が遠のいていった。

と書かれていた彼の、読書への沈潜を後追いしているということになります。読書に、とりわけ現実逃避を許すフィクションを読むことは、すなわち現世の、このひとつしかない身体を一時的に忘れることと言ってもいいでしょう。

 このとき、あくまで擬似的にですが、「続いている公園」の視点人物は、読書中の農場経営者である〈彼〉から、〈彼〉が読んでいる小説の登場人物である暗殺者=〈男〉へと移行します。

 この視点移行が、通常の小説で起こる視点移行(ある登場人物Aからべつの人物Bへの視点の移行)と違っているのは、ふたり目の視点人物である〈男〉は、あくまで〈彼〉が小説を読み進めるうちにしか活動していない存在であるということです。

 僕ら「続いている公園」の読者が、作中の農場経営者である〈彼〉の視点をとおしてのみ作中世界を知ることができるのと同じように、作中で読書している彼は、少なくとも一時的には、作中作の登場人物である暗殺者=〈男〉の視点(知覚や思考)をとおしてのみ作中作の世界を知ることができる。

 農場経営者である〈彼〉は、作中作の世界の情報を僕ら生身の読者たちにいわば中継しているわけですが、その〈彼〉が自分を忘れて読書に没頭することによって、〈彼〉は農場経営者としての特性、さらには男であるという特性すら薄まって、透明でほとんど存在していないかのような「ただの中継点」へと変じてしまうわけです。

「続いている公園」の最終段落では、作中世界で読書中の農場経営者である視点人物=〈彼〉の目をとおして、作中作の視点人物らしき暗殺者=〈男〉のが中継されます。

〈小説を読んでいる男〉は〈彼〉なのか?

 この短篇の最終部分では、冒頭の読書状況の記述で出てきた言葉(農場監督、緑のビロードの肘かけ椅子、大窓、夕暮れ=たそがれ)が繰り返されています。

〔冒頭〕
午後は〔…〕農場監督と共同経営のことで話し合った。そのあと、樫の木の公園に面した静かな書斎で本に戻った。不意に人が入って来そうで落ち着かないので、ドアに背を向ける格好で愛用のひじ掛け椅子に腰をおろし、左手で緑のビロードを撫でながら残りの章を読みはじめた。〔…〕たちまち小説の架空の世界に引き込まれた。読み進むうちに、まわりの現実が遠のいてゆく。〔…〕大窓のむこうでは夕暮れの大気が樫の木の下で戯れている。
〔強調は引用者〕
〔結末〕
たそがれの葵色の靄の中に、あの屋敷に通じるポプラ並木が浮かび上がった。思ったとおり、犬は吠えなかったし、農場監督もいなかった。〔…〕広間のドアが目に入った。ナイフに手がかかったのはその時だ。大窓から光が差し込み、緑のビロードのひじ掛け椅子の高い背もたれには、小説を読んでいる男の頭が……。
〔強調は引用者〕

 これらの共通要素があるからこそ僕ら読者は、最初に出てきた読書する〈彼〉と、最後に殺されそうになる〈小説を読んでいる男〉とを、同一視してしまうわけです。
 では、暗殺者がいままさに手に掛けようとしている読書中の男は、最初に出てきて読書する男と、同一人物なのでしょうか?
 だとしたら、農場経営者は文字どおり、

小説の架空の世界に引き込まれた。

のでしょうか? それとも、画面から這い出てくる映画『リング』の貞子のように、暗殺者が作中作の世界から作中の現実世界へと抜け出してきたのでしょうか?

小説を読んでいる「あいつ」の頭

 〈小説を読んでいる男の頭〉("la cabeza del hombre en el sillón leyendo una novela")。原文では〈男〉には定冠詞がついてます(del[前置詞de + 定冠詞el の縮約] hombre)。

 定冠詞というのは、話者が「この名詞がなにを指すかは読者も特定し、共有できているだろう」と判断したときに使われます。
 ということで、ここだけを正直に読むと、「続いている公園」の語り手は、「前述の男」と言っているような気がしちゃいますね。
 じゃあやっぱり最初の〈彼〉と被害に遭いそうな〈男〉は同一人物なのか?

遊戯の終わり原書

 でも、ちょっと待ってください。

 もう一度読んでみましょう。〈小説を読んでいる男の頭〉("la cabeza del hombre en el sillón leyendo una novela")。
 〈小説〉には不定冠詞がついている(una novela)。〈男〉が読んでいるのは「ある小説」なわけです。

 語り手は小説を読んでいる〈彼〉だけでなく、当然、その〈彼〉が読んでいる小説についても、すでに言及しているわけです。
 〈小説を読んでいる男の頭〉("la cabeza del hombre en el sillón leyendo una novela")というフレーズが、「続いている公園」の語り手と僕ら読者とのあいだのコミュニケーションにダイレクトに根ざしていたなら、〈小説〉という語にだってここで不定冠詞がつかなくてもいいはずじゃないですか。

 ところが〈小説を読んでいる男の頭〉("la cabeza del hombre en el sillón leyendo una novela")という文では、〈男〉には既知を示す定冠詞がついているのに、〈小説〉には初めて出てきたことを示す(ようにも読める)不定冠詞がついている。これはどういうことか?

 ここはつまり、「〈男〉のことは認知しているが、その彼がいま読んでいる小説については認知していない人物」の視点を経由した書きかたになっていることがわかるわけです。
 その人物とは、「続いている公園」の語り手でもなければ、冒頭に出てきた視点人物である農場経営者〈彼〉でもありません。ふたりとも、その〈小説〉のことは知っているからです。

 その人物とは、もちろん前述のとおり、作中作の暗殺者である〈男〉なのです。
 だから最後に出てきた〈小説を読んでいる男〉は、あくまでも「作中作の〈男〉の殺害ターゲット」をさしていることがわかるだけです。冒頭の農場経営者〈彼〉であるということは、けっして明言されていません。だからあくまでこれは、読者の解釈だということになります。
 つまり"la cabeza del hombre en el sillón leyendo una novela"とは、あくまで暗殺者から見た「小説を読んでいるあいつの頭」なのです。

 では結局のところ、冒頭の、小説を読んでいる〈彼〉という語と、最後に出てくる〈小説を読んでいる男〉という語は、ほんとうに同一人物をさししめしているのでしょうか?

(↓こちらへつづく)


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