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押すなよ! ぜったい押すなよ! 物語における禁止と違反


0. まえがき(2025年2月9日公開)

この記事は、つぎの2本の記事の続きです。毎日少しずつ継ぎ足す形で公開します。

これからしばらく、おとぎ話について考える

旧型ディズニープリンセスが好きな人に、もう一度胸を張って、好きなものを好きだと言えるようになってもらおう。

僕が来月(2025年3月)に出す予定の本のなかで、物語における禁止と違反の話をしています(それが本のメインではないんですけど)。

「物語における禁止と違反」については、いろんな人が研究してて、いまさら僕がつけ加えるなにか新しいものを持ってるわけではありません。

ただ、この問題について、いくつかの実例を簡単にまとめる必要があったんで、そのノートをこれから、何回かに分けて公開しようと思います。
文学理論とか説話で卒論書こうと思ってる学生さんいたら、どんどん使ってやってください。

ただし、このnoteを参考文献に挙げるのはおすすめしません。このnoteではできるだけ出典を明らかにしますので、元ネタのほうを参照してくださいね。

1.『創世記』のエヴァ(2025年2月9日公開)

旧約聖書『創世記』第2章第17節には、神の禁令への違反と、それによる楽園喪失が出てきます。

ヤハウェ神が土を捏ねてアダムを創造し、楽園の木はどれも実を食べてよいが、〈善悪を知る木〉の実だけは食べてはならない、と命じ、そののちに妻を創ります。ほ
かはなにをしてもよい、という「基本許可・一点のみ禁止」の対照ですね。

第3章で、狡猾な蛇が女を唆して、善悪を知る木の実を食べさせます。女は男にもこれを食べさせました。
ふたりは自分が全裸であると知り、無花果いちじくの葉で腰を隠します。
ヤハウェの足音を聞いてふたりは身を隠します(罪悪感の表現)。
神はふたりのいでたちから破約の事実を知り、ふたりに男女不和、労働・出産の苦しみ、死を約束して、彼らを楽園から追放するのです。

この箇所において、

人は妻の名をエバ(生命)と呼んだ。

『創世記』中沢洽樹こうき訳『旧約聖書』所収、
中公クラシックス、2004年、8頁

と、後づけでエヴァ(ヘブライ名ハヴァ、英語名イヴ)の名が記されています。これは後代の挿入ともいわれているようです。

なお、『クルアーン』(コーラン)第2章(メディナ啓示)第33-39節には、この神話のイスラーム版があります。

ここでは夫婦のどちらが先に破約したかという話は出てきません。
悪魔の誘惑によって、夫アーダムも妻(本文中に名はありませんが、イスラームの伝承ではハッワー)も破約してしまいます(『コーラン』藤本勝次+伴康哉こうさい+池田修訳、第1分冊、中公クラシックス、2002年、8-9頁参照。)。

英国の詩人ジョン・ミルトンは、叙事詩『失楽園』(1667)で、この楽園喪失神話を劇的に叙事詩化しました(平井正穂まさお訳、岩波書店)。(続く)

2.ちょっと寄り道(「デメテル讃歌」のペルセポネ)(2025年2月10日公開)

女性が食物を食べて、それで世界に決定的なことが起こってしまう神話というと、ギリシア神話のペルセポネが思い浮かびます。
(この項目は、1.の参考として書きます。「禁止と違反」の話から、少しだけ脇道にそれます)

ホメロスの作とされてきた諸神讃歌第2番「デメテル讃歌」(じっさいにはホメロスの時代よりあとに作られたとされる)では、豊穣の女神デメテルとその弟である主神ゼウスとのあいだの娘ペルセポネを、伯父にあたる冥府の神ハデスが誘拐し、妃とする。ハデスは

そっと辺りを見回すと、
甘い柘榴の実の一粒を、みずからの手で妃に食べさせた。

「デーメーテール讃歌」沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神讃歌』所収、
ちくま学芸文庫、2004年、39頁

冥界の食物を口にしてしまったせいで、ペルセポネは冥界にとどまる運命となりました。
そしてペルセポネが世界に冬という季節が、避けがたく存在するようになったというのです。

アポロドロスなる人物によって、1世紀あるいは2世紀に書かれたとされる『ビブリオテケ』によると、このためペルセポネは毎年の3分の1を冥府で過ごすこととなりました。

ペルセポネが地上・天上に帰還するのが春の訪れとされたのです(『ギリシア神話』高津こうづ春繁訳、岩波文庫、1953/1978年、37頁)。
要は彼女が冥府の柘榴を食べたせいで季節の循環が、端的に言うと冬という季節が、始まったということになります。(続く)

3. ウラジーミル・プロップ『昔話の形態学』と熱湯風呂(2025年2月11日公開)

旧ソヴィエト連邦の民俗学者ウラジーミル・プロップは、ロシアの魔法むかし話の筋を構成する諸要素を分類しました。
これによれば、魔法むかし話の各話は、ごく限られた数の〈機能〉の取捨選択と組み合わせから成立しており、資料体を走査しても、その〈機能〉の種類は総数わずか31を数えるものだったといいます。

プロップが挙げた31の諸機能のなかで、γガンマ〈主人公に禁を課す〉とδデルタ〈禁が破られる〉は、リストの2番目と3番目に接して置かれています。

Ⅱ[禁止]の機能とⅢ[違反]の機能とは、対をなしている要素です。

ウラジーミル・ヤコヴレヴィチ・プロップ『昔話の形態学』(1928)
北岡誠司+福田美智代訳、書肆風の薔薇(水声社)
《叢書 記号学的実践》第10巻、1987年、44頁。

〈禁止〉とは、主人公が「××をするな」と命じられたり、あるいは「××をすると碌なことがないよ」と忠告されたりすること。
主人公がこの禁を破らなければ、罰としての災厄が起こらず、ひいてはストーリー自体が展開しません。
禁止は違反の前フリに過ぎないと思えるほどです。物語というものは禁止と違反と発覚と罰に満ちています。

〈禁止〉と〈違反〉がセット状態であるとはどういうことか。

物語において禁止が提示されると、物語の受信者は、即座にそれが違反された状態を思い浮かべるということです。
違反によって、罰やその他の災いが招かれることを、人間は自動的にシミュレーションしてしまうのです。

つまり、筋書きミュトス的に言えば、禁止を提示することイコール違反の旗標フラグを立てること、というかたちになる。
その点でこれは、ダチョウ倶楽部や出川哲朗さんがが熱湯風呂の場面で
「押すなよ! ぜったい押すなよ!」
と念を押して禁止するお約束のくだりのようなものかもしれません。
つまりエヴァは、「禁止されたのに違反した」のではなく、「禁止されたから違反した」、というわけ。(続く)

4. 「チェーホフの銃」は劇と短篇小説に向いている(2025年2月12日公開)

前節の熱湯風呂で思い出しましたけど、ロシアの劇作家アントン・チェーホフは、1889年11月1日付アレクサンドル・セミョーノヴィチ・ラザレフ宛書簡に、以下のようなプロット論(作劇術ドラマトゥルギー)を書きまた。

発砲の予定がないのなら、装塡済の猟銃を舞台に置かないこと。空証文そらしょうもんを出すもんじゃない。

https://berlin.wolf.ox.ac.uk/lists/quotations/quotations_by_ib.html

チェーホフはこれを、べつの機会に口頭でも述べていたようで、複数の人が証言する逸話としても残っているらしい。
第1幕(あるいは第1章)で猟銃(あるいは拳銃)を置いて(あるいは壁にかけて)おくのなら、第2幕(あるいは第2章以降)でそれは発砲されなければならない、その気がないなら、そんなものを登場させないこと。
これは「チェーホフの銃」として知られています。

チェーホフは劇作家であると同時に、短篇小説の作者でもありました。演劇同様に短篇小説も、筋の必然性にドライヴされることの多い分野です。
弛緩した日常っぽさの記号(これはたしかにつまらない)や、長篇小説ならではの散文の自走性・脱線志向(これは小説の醍醐味のひとつ)よりは、作りこまれた必然性の連鎖をだいじにしていたようです。

プロット上の必然性を重視する姿勢であり、チェーホフの劇作家としての資質がここに出ています。
このように機能や伏線効果を重視していたのでは、なかなか大長篇小説をものするわけにはいきますまい。
ちなみに、やはり短篇作家だったヘミングウェイは、チェーホフの銃を全力で批判しています。機会があればべつの記事で、この話をさせていただきます。

『創世記』でも、「知恵の木の実を食べるな」という禁止がなされた瞬間、物語はその禁止が破られる地点に向かって進み始めるのでした。
そういう意味で、物語における禁止の使い道とは、「破るよ」と読者に約束することにある、というわけです。(続く)

5. トドロフとマリア・タター(タタール)のシークェンス論(2025年2月13日公開)

ところで、ブルガリア出身のフランスの記号学者ツヴェタン・トドロフは、登場人物の行動展開の、近代小説とおとぎ話における違いについて、おもしろいことを言っています。

19世紀小説なら、
「X、Yに恋着・嫉妬する」
から惹き起こされる結果は、
「X、世を捨てる」
「X、自殺する」
「X、Yに言い寄る」
「X、Yを害する」
と、いろんな可能性がある。
ところがおとぎ話の集成である『千一夜物語』では、

「X、Yに恋着・嫉妬する→X、Yを害する」というたったひとつの可能性しかない。〔…〕Xが妻を殺すのは、Xが残酷だからだ。でもXが残酷なのは、Xが妻を殺すからだ。

Tzvetan Todorov, “Les Hommes-récits : Les Mille et une nuits”
in Poétique de la prose, choix, suivi de Nouvelles recherches sur le récit (1971/1978),
Paris : Le Seuil, coll. “Poétique”, 1980, pp. 35-36.

米国で活躍するドイツ出身のドイツ文学者マリア・タター(タタール)は、このトドロフの見解をさらに推し進めて、おとぎ話では〈登場人物の肉体的および精神的特徴〉から、〈必ずといっていいほど、たったひとつの予想しかできないその成り行きが展開される〉とまで言います。

おとぎ話の物語の論理では、嫉妬は殺人のことである。女主人公のこのうえない美しさは、求婚者を引き寄せ、この美しさから結婚が引き出される。旅への憧れが航海を導く。恐怖が人食い鬼はじめ、さまざまな怪物をはびこらせる。手も足も出せない絶望的な状態が助力者を、まるで魔法でも使ったように生み出す。哀れみの情は褒美をもたらす。好奇心は禁制を引き出す。

マリア・タター(タタール)『グリム童話 その隠されたメッセージ』』(1987)
鈴木晶+ 高野真知子+ 山根玲子+吉岡千恵子訳、新曜社、1990年。251頁。

 〈好奇心は禁制を引き出す〉!

 つまり、青ひげ夫人は「禁止されたのに違反した」のではなく、「禁止されたから違反した」のですらなく、「青ひげ夫人が好奇心旺盛だったから、一室が禁止された」ということになるわけです。うーむ、そこまで言うか。(続く)

6. 「鶴女房」と「志村、うしろうしろ!」(2025年2月14日公開)

日本むかし話「鶴女房」木下順二が劇化した『夕鶴』(1948)では、主人公の「与ひょう」に先立って、近隣住人の「│惣《そう》ど」と「運ず」が機織りの間を窃視します。

与ひょうは、ふたりにつられるかたちで破約してしまいます。
作者は主人公を、できるかぎり誠実な、約束を守る人物として描きたかったのでしょう。

この場面について、精神科医・北山修がつぎのようなことを伝えています。

どこかで上演されたときに、主人公の与ひょうが、つうの機織り小屋をのぞくとき、客席から舞台に向かって、「のぞいちゃだめ」という声がかかったんだそうです。ということは、おそらく皆さん方も僕らも、このつうの気持ち、あるいは与ひょうの気持ちがわかるからなのではないか。共有しているからではないでしょうか。

北山修「見るなの禁止」(1980)、
《北山修著作集 日本語臨床の真相》第1巻『見るなの禁止』所収、
岩崎学術出版社、1993年、10頁。

〈つうの気持ち、あるいは与ひょうの気持ちがわかる〉。
それを観客が〈共有している〉。
ということは、この「禁止→違反→発覚→罰」を、人類はひとつのセット状態として認知しているということなんでしょうね。

与ひょうに思わず〈のぞいちゃだめ〉と声をかけた観客は、ドリフターズのコントを見ながら「志村、うしろうしろ!」と叫んだ昭和の子どもたちのようなものでしょう。
上島さんも志村さんも、もう旅立ってしまったのが寂しい。

息子が小学校1年生の1学期、授業参観に行ったら、授業開始前の時間に、クラスで「浦島太郎」の動画を観てました。
ラストで太郎が玉手箱に手をかけたとき、「開けちゃダメ!」と言ってる子が何人もいたんですよ。

また息子は、家でグリム童話「金の鳥」を読んだときにも、主人公のボンクラ王子が助力者である狐の助言を忘れて失敗するたびに「ああ! ダメだってば!」とツッコんでいました。

ホラー映画の主人公が禁を犯すのを読むとき、「ダメだってば!」とあなたも心のどこかで叫んでいます。
でも、心の「べつのどこか」では「行け! 開けてやれ!」と叫んでもいるのです。

こういうときの僕らは、アクセルとブレーキを同時に踏んでるはず。
ある種の展開の魅力の一端が、「禁止に違反する」スリルに乗っかっていることは間違いありません。(続く)

7.パンドラの匣と浦島太郎の玉手箱(2025年2月15日公開)

要するに、、禁止と違反はセット状態というわけです。

禁止が提示されると、物語の受信者は、即座にそれが違反された状態を、意図せずして反射的に思い浮かべます。違反後に罰や災いが訪れることを、人間は自動的にシミュレーションしてしまう。

開けてはいけない箱を開けてしまったパンドラは浦島太郎にも似ています。

ヘシオドスの長篇詩『仕事と日』(紀元前700?)で、ティタン神族に属するプロメテウスが、従兄弟にあたる主神ゼウスから火を盗んで人間に与えます。
復讐を誓ったゼウスに命じられて、鍛冶の神ヘパイストス(ゼウスの正妻ヘラが単性生殖で産んだ神)が土を捏ねて女を作り、知恵の女神アテナ(ゼウスと従姉妹である最初の妻メティスとのあいだに生まれた女神)がこれを着飾らせた。
オリュンポス神族のよろず(パンテス)の神々は、女に贈り物(ドーロン)を持たせた。そのため、女の名はパンドラ(パンドーレー)という。

ゼウスは伝令神ヘルメス(ゼウスと、プロメテウスの姪にあたるマイアの子)に命じて、パンドラをプロメテウスの弟エピメテウスのもとに遣わす。エピメテウスはかねがね兄から、

オリュンポスなるゼウスからの贈物は、
決して受け取ってはならぬ、人間たちの禍いになるやもしれぬから、
つき返せと戒められておったのに、忘れてそれを受け取り、
受け取ってすでにおのれのものとした後に、ようやくそれと覚ったのじゃ

ヘシオドス『仕事と日』第86-89行、
松平千秋訳、岩波文庫、1986年、21-22頁。

それまで人類は労働も病苦もない世界に生きていたけれど、パンドラが贈り物のかめの蓋をとってしまって、なかから飛び出してきたかずかずの苦難が人類に降りかかる。最後に甕の縁の内側に希望エルピスだけが残った。

太宰治の小説(1946)の題になったことでも知られる、いわゆる「パンドラのはこ」です。
15-16世紀ネーデルラントの思想家エラスムスがラテン語でこの神話を記述したときに、甕・壺が箱と訛伝してしまったとか(ドラ&エルヴィン・パノフスキー『パンドラの匣 変貌する一神話的象徴をめぐって』(1956)尾関彰宏+阿部成樹+菅野晶訳、法政大学出版局《叢書・ウニベルシタス》第718巻、2001年、12-16頁参照)。
でも素直に読むと、禁止に違反したのはパンドラではなくエピメテウスのほうではないでしょうか。プロメテウスは「先見の明」、エピメテウスは「後知恵」の意味だといいます。

太宰治は、『パンドラの匣』(1946)の前年に発表したむかし話パロディ連作『お伽草子』(1945)の一篇「浦島さん」で、つぎのように書いていました。

パンドラの箱の場合は、はじめから神々の復讐が企圖せられてゐたのである。「あけてはならぬ」といふ一言が、パンドラの好奇心を刺戟して、必ずや後日パンドラが、その箱をあけて見るにちがひないといふ意地惡い豫想のもとに「あけるな」といふ禁制を宣告したのである。それに引きかへ、われわれの善良な龜は、まつたくの深切から浦島にそれを言つたのだ。

底に、「希望」の星があつて、それで救はれたなんてのは、考へてみるとちよつと少女趣味で、こしらへものの感じが無くもないやうな氣もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自體で救はれてゐるのである。〔…〕浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。

太宰治「浦島さん」(1945)
『太宰治全集』第8巻『小説7』所収、
筑摩書房、1998年、349頁。

なお玉手箱は、文献には出てきても口承の浦島型むかし話にあまり出てこないらしい。
これに注目した上代文学研究者・西條勉は、玉手箱は帰還後の浦島のタイムリープを説明するために伊予部馬養いよべのうまかいが発案した合理化アイテムではないかとの説を立てました(西條勉『『古事記』神話の謎を解く かくされた裏面』中公新書、2011年、210頁参照)。

興味深いことに、奄美大島版の「浦島」には、『古事記』の火照ホデリ火遠理ホオリ(いわゆる「海幸・山幸」)兄弟の道具交換の話が混じりこんでいます。奄美では浦島太郎が山幸彦だったのです。
開けるなと言われた玉手箱を開けると、出てきた煙に乗って弟は天に昇る。西條によれば、これは記紀神話が民間に流れたのだといいます。〈口承といっても、文字の影響を受けた話もある〉(西條)。(続く)

8.西洋中世文学における破約 イヴァンとエドリクス(2025年2月16日公開)

ヨーロッパ中世文学のなかには、禁止に違反したり、約束を破ったりする展開が溢れています。登場人物たちはやすやすと破約してしまうのです。

アーサー王伝説の騎士ユーウェインは、フランスの吟遊詩人クレティアン・ド・トロワによるアーサー王ものの韻文物語『イヴァンあるいは獅子の騎士』(1176?)ではイヴァン、14世紀にウェールズ語でまとめられた『マビノギオン』所収「オワインまたは泉の女伯爵の物語」ではオワインと呼ばれています。

彼は命がけの戦いで得た結婚の直後、仲間たちに誘われるまま、妻を置いてアーサー王のもとに合流することになる。
そのさい、単身赴任の期限が切られる(『イヴァン』では1年、「オワイン」では3か月)。
だが騎士は騎馬試合に明け暮れ、約束の期限を忘れて帰らない。愛想を尽かした妻に縁を切られ、狂気に陥る。

ウェールズ人ウォルター・マップ(1140-1210?)がラテン語で書いた『宮廷人の閑話』は、中世ヨーロッパ版『耳嚢みみぶくろ』とでもいうべき奇聞集。
その第2部第12章で、ノルマン朝初代のイングランド王ウィリアム1世の御代(1066-1087)、ヘレフォードシャーは北レドベリーの領主エドリクス・ヴィルデ(野生のエドリクス)は、小姓とともに狩の帰りに、夜の森のなかにある建物で長身の貴婦人たちが舞踏会を開いているのに出くわす。
エドリクスは、いずれこの世のものではあるまいと悟りつつ、なかのひとりに恋心をいだき、小姓の協力を得てその女をさらうことに成功する。

女は、森で見たことを漏らさないなら健康と繁栄を手にするが、約束に背けばそれを失う、と告げる。
多くの歳月ののち、夜中3時に狩から戻って妻を呼ぶと、来るのが遅かったため、

これほど遅くまでお前を引き留めて置いたのはお前の姉妹たちだったのかね?

ウォルター・マップ『宮廷人の閑話 中世ラテン綺譚集』
瀬谷幸男訳、論創社、2014年、144頁。

と厭味を言ってしまった。

妻は姿を消し二度と戻らず、領主は悲しみのうちに死ぬ。

中世文学のこういうの、人間てものをめちゃくちゃ感じてしまうんですよね。人間て、ちっとも「主体」なんかじゃないんだなあって。(続く)

9.雪女と白雪姫(2025年2月17日公開)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』(1904)には、日本の伝説をリライトした作品が収録されています。このなかの「雪女」が破約の話。見目麗しい男を取り殺さずに放免し、このことを秘密にせよと命じた雪女の話です。

生き延びた男はお雪という女と結婚し、子をもうける。ある日妻に、むかし雪女に遭って殺されずに済んだ話をしてしまう。
妻の正体はあのときの雪女だった。本来なら殺すところだが、子どもたちに免じて殺さずにおいてやる、と言い残して、夫と子どもの前から姿を消してしまう(平川祐弘編訳『怪談・奇談』所収、講談社学術文庫、1990年)。

男にとっても子どもにとっても、そして雪女にとっても、なんと悲しい結末でしょう。

グリム兄弟『子どもと家庭のメルヒェン集』には、破られた禁止や約束や警告の話が多い。
初版第1巻(1812)で、7人の小人は白雪姫に〈だれも中へ入れるんじゃないぞ〉と警告し、最終版(1857)では王さまが山男・鉄のハンスを閉じこめた檻の〈戸をあけてはならん、そむいた者は死刑にする〉とお触れを出す。

それでも白雪姫は、変装した母(王妃)を3度にわたって招き入れ、3度にわたって殺されました。また王子は父王の命に背いて鉄のハンスを逃してしまう。のみならず、金の泉の水に触れてはならないという鉄のハンスの言いつけにも、3度にわたって背いてしまった。

むかし話における「3」という数字については、民俗学の分野でしばしば話題になるところ。「白鳥の騎士」(後述)のエルザムが3日目に夫の問いかけに白状したのは3度目の正直だし、鉄のハンスの顔も3度まで。

ところがグリムの「金の鳥」では3人兄弟の末っ子王子は、助力者である狐の忠告・禁止をなんと4度にわたって忘却し、そのたびにミッションに失敗してしまうのです。(続く)

10.日本古典文学のなかの浦島太郎(2025年2月18日公開)

『日本書紀』(720)巻第14、雄略天皇22(西暦420)年7月のくだりで、丹波国余社郡よざのこおり管川つつかわ(京都府与謝よさ伊根町いねちょう)の瑞江浦嶋子みずのえのうらしまのこが亀に出会って蓬莱山に行ったとされます(川添武胤+佐伯有清訳、中公文庫、上巻、2020年、534─535頁参照)。

その帰還が報告されたのは『万葉集』巻第9第1740歌、8世紀前半の歌人高橋虫麻呂たかはしのむしまろ作とされる長歌のヴァージョンです。この歌の反歌も収録されています(『口訳万葉集』上巻、『折口信夫全集』第4巻、中公文庫、1975年、458-459頁)。

この歌は日本の古典詩歌史に珍しい純然たる譚詩バラッドで、主人公は開けない約束でもらった櫛笥くしげ(化粧道具を入れるはこ)を開けて、白髪の老人になってしまう。

『丹後国風土記』(8世紀)の逸文「浦嶼子うらしまこ」によると、この人は筒川(つつかわ)の嶼子(しまこ)と呼ばれます。そこでは、七世紀末から八世紀にかけて活躍した漢詩人・伊予(余)部いよべの馬養うまかいが、この物語のソースとされています。

顕兼あきかね編とされる説話集『古事談』(1210年代)中の「浦島子の事」になると、浦島の帰還は『日本書紀』の成立より1世紀以上のち、825年のこととされています。玉手箱も出てくる。
なお、太郎という名がつくのも、動物の恩返しの要素が加わるのも、室町時代のお伽草子からだといいます。報恩譚の要素は、仏教説話の絵影響で附加されたのかもしれません。(続く)

11.「見るなのタブー」と破約と罰(2025年2月19日公開)

神話やむかし話には「見るなのタブー」と、その禁止の違反、そして違反に対する罰とが、さかんに登場します。

『創世記』で神は、頽廃したソドムとゴモラの両市を滅ぼすことにする。神は使い(天使)をふたり、現地視察につかわす。
ソドムの門にいたアブラハムの甥ロトはふたりをもてなし、町民の乱暴から匿おうとする。天使はこの義人に町の滅亡を予告し、

必死に逃げよ。うしろを見るな。低地のどこにもとどまるな。山のほうに逃げるのだ。さもなければ助からぬぞ

前掲『創世記』第19章第17節、8頁。

と命じる。一家が近隣の村ゾアルに避難したとき、ヤハウェが硫黄の火を降らせて、一帯を滅亡させる。妻は振り返ってしまい、塩の柱となった。

イスラエル南東部、死海西岸のソドム山に、「ロトの妻」と呼ばれる塩柱がいまもあり、観光スポットになっているそうです。

『ビブリオテケ』第1巻第3章が伝えるところによると、ギリシア神話の楽人英雄オルペウスは、蛇に噛まれて死んだ妻エウリュディケを連れ戻そうと冥府に降り、冥府と地下資源の神プルトン(ゼウスの兄ハデス)を説き伏せた。

プルートーンはオルペウスが自分の家に着くまで途上で後を振りむかないという条件で、そうしようと約束した。しかし、彼は約を破って振り返り、妻を眺めたので、彼女は再び帰ってしまった。

前掲『ギリシア神話』32頁。

この神話はラテン語文学においても、ウェルギリウス『農耕詩』(紀元前29年)第4歌第453行以下、またオウィディウス『変身物語』(紀元後8年)第10巻で取り上げられています(『農耕詩』小川正廣訳『牧歌 農耕詩』所収、京都大学学術出版会《西洋古典叢書》、2004年、204-206頁および『変身物語』大西英文訳、講談社学術文庫、下巻、2023年、74-82頁参照)。

荒木飛呂彦はこういう禁止事項を、漫画でたくみに利用しました。『ジョジョの奇妙な冒険』第4部『ダイヤモンドは砕けない』で、仙台をモデルとした杜王もりおう町では、地図にない小道が、コンビニエンスストア〈オーソン〉と〈ドラッグのキサラ〉のあいだに出現します(1993年発表の挿話)。この小道で振り向いてしまうと、亡者たちに連れ去られるのです(「岸辺露伴の冒険 その4」(1993)『ジョジョの奇妙な冒険』第22巻、集英社文庫、2004年、207頁)。

(続く)

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