コルタサル_通着の終り_2

小説もコミュニケーションだ。

たまに小説を読む話をします。
この記事は最初のうちだけ「実質」無料ですが、気がついたら有料になってる可能性があります。

ここで書くのは批評でもなんでもありません。
僕はべつに、小説の読み巧者ではない。
そもそも小説なんて自分ができるように読むしかないので、
「俺の読みが正しい、あいつの読みは間違っている」
といったことに、興味がないのです。

むしろ、ふつう程度の(つまり、たいしたことない)頭しかない僕が小説を読むときに、そのたいしたことのない頭がどのように働いているのか、そっちのほうに興味があります。

それから、小説を読むにあたって、小説特有の方法がある、とも僕は思ってません。
ウェブ記事を読むとか、親の小言を聴くとか、TVで落語を視聴するとか、そういうのと同じ、「言葉を使ったコミュニケーション」の一種として、小説も読めばいい、というふうに思います。

なんだかんだ言って、小説は作者が読者に向けてする「お話」なんです。
「お話」である以上、そして作者といっても僕ら読者と同じ「人間」である以上、その「お話」を聴いてほしいと、作者は思っているに決まってます。
でも僕らも人間だから、読み違いや決めつけをしてしまう。
その読み違いや決めつけといったバグも含めて、「人間のする仕事」なんですね。

バグごと、僕の興味の対象です。
そういう部分まで含めて、
「へー、俺って、読むときに無意識にそんな情報処理や処理ミスをやってるんだなー」
ということを、意識させてくれる小説について、ここで書いていきます。

最初はアルゼンチンの小説家フリオ・コルタサルの掌篇小説「続いている公園」(木村榮一訳)を読むことにします。

完全にネタバレします。ネタバレしてからが本題。
わずか2頁の作品なので、読んで(読み直して)いてくださると助かります。

刊本は『遊戯の終わり』(岩波文庫)が最新。

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これは《ラテンアメリカ文学叢書》第5巻『遊戯の終り』(国書刊行会)の文庫化ですが、修整がなされています。
題も、国書刊行会版は〈終わり〉じゃなくて〈終り〉だったの。

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新装版『遊戯の終り』(国書刊行会)は、版面はたぶん上のと同じ。

画像3

最新版の前に、同じ岩波文庫の『コルタサル短篇集 悪魔の涎 追い求める男』にも収録されてます。ベスト版的な作品集。
これが2番目に新しい訳ってことになるか。

画像4

同じ訳者なのですが、国書版(ふたつ)と岩波版と岩波ベスト版で、文言の修正など、細部に違いがあるようです。
僕はいちおう目下の最新版『遊戯の終わり』(岩波文庫)で行きますね。

ではもうすぐここでお会いしましょう。
できるだけ長くおつきあいいただけると嬉しいです。

(つづく)

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