汝らも、見よ
南伝 相応部経典 12 20 縁。漢訳 雑阿含経 12 14 因縁法
これを証り、これを知って、これを教示し、
宣布し、詳説し、開顕し、分別し、明らかにして、
思考して「汝らも、見よ」と言うのである。
古い唄が、作った人の名も、唄った人の名も、忘れさられ、
それでも歌い継がれていく様に、想いは続くのだ。
システムは人が変わろうと、物が変わろうと、
少しずつ、変化をするが使われ続けて行く。
そして、人もまた、あるシステムの一部として
変化しながら向かう先があり、
それは何百年も、何千年も前から方向として定められ
多少は曲がったり遅くなったりしているが
いつかは、56億7千万年後かもしれないが、たどり着くものなのでしょう。
南伝 中部経典63 魔羅迦小経。漢訳 中阿含経221 箭喩経
いわく「世界は永遠である」とか「世界は有限である」とも私は説かない。
また「世界は有辺である」とか「世界は無辺である」とも私は説かない。
何ゆえにそれらの事を私は説かないのであろうか?
汝らよ、実にそれらは道理に合わず、梵行のもとともならず、
厭離・離貧・滅尽・寂静・叡智・正覚・涅槃に役立たないからである。
それゆえに、私はそれらのことを説かないのである。
真理(悟り)は、そこにある。
だから、それを見なさい。
難しいことでも、苦しいことでも、おごることでも、議論することでも、
かなわないことでも、信じることでもありません。
ただ、そこにある。
だから、それを見る。
究極の回答がそこにある。