無花果の木
こんにちは!
ウッカリ坊主で
ジャムおばさんで
歌うたいのちみょうです。
たまーに真面目な文章を書くことを求められることがあるので、
そういったものをこのマガジンにも残していこうと思います!
この記事は、ある季刊誌に寄稿した過去のエッセイ。
全4回で、今回で最終回となります。
今から7年前に書いた記事そのままを記載しています。
3回目まではコチラ↓
第1弾
第2弾
第3弾
第4弾 無花果の木
私が初めて販売したジャムは、無花果ジャムでした。
島にある道の駅に卸したのが最初で、今から12年前(2016年現在では)のことです。(起業したのは2003年です)
近所の農家さんが朝摘みした、新鮮且つ完熟した実の皮を剥き、同じく地元産のレモンと化学精製していない砂糖を加えて作る低糖度の無花果ジャムは、今でも当店の人気商品です。
農業をされている門徒さんたちは、収穫された果実をお供えしてくださいます。
うちのご門徒さんの8割以上は農業をされているので、同じ時期に同じ果実がたくさん集まります。
おさがりの果実を家族でいただいたり、お裾分けしたりもしますが、それでも余ってしまう場合は、母がよくジャムにしてくれていました。
なので私にとってジャム作りというのは、昔からそんなにかけ離れたものではありませんでした。
夫がもしジャム屋ではなく、パン屋とか他の起業を志していたら、私は賛成しなかったかもしれません。
今から3年程前、ご門徒の農家さんの一人が無花果の木を切ることになりました。
ご高齢ということと後継者がいないためでした。
私たちは慌ててご相談に伺い、その木から挿し木をしてもらい、当店の自家農園で栽培することになりました。
このように、島では後継者不足が深刻な課題ですが、最近では農業や漁業を志し、Iターン、孫ターンしてくださる方も少しずつ増えてきました。
ここ数年では、そういった方々が栽培してくださった果実でもジャムが作れるようになり、本当に嬉しく感じています。
3年前に挿し木をしたイチジクの木々からも、今年初めて販売用のジャムを作れるくらいの収穫量を得ることができました。
私の祖父母たちも毎年美味しくいただいていた無花果は、今も島内外の人たちの舌と心を喜ばせ、そしてそれは命の一部になっています。
先人たちが育んでくれた命のリレーは、この私の命そのものだけでなく、私たちの気づかないところにもたくさんあるのだと、この無花果の木は私に教えてくれるのです。
平成28年発行「季刊せいてん第117号」より
つい数日前、2023年9月26日は、冒頭の写真に写っている無花果農家だった男性のご命日で、七回忌法要でした。
同じく写真に写っている奥さまと、娘さんたち、そしてそのご家族が集まってご自宅での法事でした。
私は三姉妹ですが、こちらのお宅も娘さんが3人おられます。
寺の総代役員もつとめてくださり、そして夫と私のジャム専門店創業当初から、ジャムの原料となる無花果を卸してくださっていました。
この記事を書いた1年後に亡くなれたので、今年でまる6年がたち、七回忌。
私は今から5年前に住職を継いだので、彼の葬儀の時はまだ副住職でした。
もちろん、すでに何度も葬儀を経験していた私でしたが、導師をつとめる父の脇でお経を読みながら、涙どころか嗚咽が止まらなくなってしまいました。
人徳のある優しい方でしたので、参列の方もたくさんおられました。
いい大人なのに、僧侶なのに、お経がちっとも読めなくなってしまった私は、恥ずかしいのと悲しいのと、ご遺族に申し訳ないのとで、ますます声がうわずっていました。(;´д`)トホホ
隣でお経を読んでいる父とその方は両方三姉妹の父。そんなことまでもが、私の涙を誘いました。
うちの寺が年に2回発行している寺だより(新聞)の中の、門徒さん紹介のページに、かつてこのご夫妻に出てもらったことがあります。
その時、取材でいろんなお話を伺いました。
私の住む瀬戸内の島は、みかんの島とも呼ばれるほど、柑橘栽培のさかんな土地です。
その方も元は柑橘だけ栽培しておられたようですが、柑橘は冬に収穫するものなので、夏の時期に収入がありませんでした。
そこで、温暖な気候を生かして夏~秋にかけて実る果実はないだろうかと仲間たちと調べ、結果、無花果を栽培し始めたそうです。
無花果は、果実の中でも特に足が速い果実です。
早朝から収穫して、そのまま市場まで仲間と交代で出荷しに行かれていたそうです。
島には市場がありませんので、車で1時間以上かかっていたとか。
それを70代半ばまでしておられました。
それまでは市場に出荷できない、いわゆるB級品だけをジャムの原料として卸していただいていましたが、晩年は市場へは出荷せず、全てうちに売ってくださるようになりました。
暑い夏の時期に、本当に大変なお仕事です。
みかんの収穫は夏はないとはいえ、摘花や消毒、草刈りなどもあります。
私には、到底できそうにありません。
なぜ、そこまでできたのでしょうか。
そんな問いを投げかけた私に、こう、おっしゃいました。
「大変じゃった。でも、この無花果のおかげで、娘たちを学校に行かせることができた」
と。
「そしてやっぱり、無花果は美味しいよの」
と言って、笑っておられました。
決して言葉数の多い方ではありませんでした。
でも大事な時にはしっかり言葉にしてくださいました。
「あんたが寺を継いで住職になってくれるとはの。本当によかった。安心した。よう、帰ってきてくれたの」
娘ばかりを持つ父であるその方からのその言葉は、私をあたたかく包んでくれました。
無花果がいっぱい入った箱を持って、店に納品に来てくれていた時の作業服姿。
寺総代として行事を手伝ってくれていた時のスーツ姿。
大切な葬儀なのに、泣きながらお経を読みながら、いろんな思い出が頭の中を駆け巡っていました。
そして、僧侶というのは、あんまり門徒さんと仲良くなりすぎちゃいけないのかもしれない!仕事にならないじゃん!!
そんなことを考えて、また泣けてくる私なのでした。