4.道化の私とばあちゃんの思い
検視結果が出るまでの間、何時間か待った。
どれくらい待てばいいか、というのも、
遺体の状態によって変わるらしい。
「状況によって、
今夜中に終わるかもしれませんが
日付をまたぐ可能性があります。
深夜0時までに連絡がなければ、
翌朝に連絡が来ると思ってください」
待つ間、隣の祖父母の家で夕飯を食べ、
みんなで待った。
こんな状況で腹が減るわけもなかったが、
それでも何か口にしないと、ということで、
祖母と母が、炊いてあったお米で
おかかと昆布のおにぎりを握ってくれた。
妹は相変わらず呆然とした表情のままで、
こちらの言葉に反応する余裕すらないような状態だった。
「サナちゃん、食欲ないと思うけど、
何か食べないと」
祖母に言われたが、
何とか少し口にしただけで残してしまった。
一方の私はというと、この酷い状況と
空気感を打破したく、下の弟と一緒に
道化を演じていた。
胃がキリキリと痛んでいたが
「今日コーヒー飲み過ぎたわ」
ということにして、
さらに腸内環境の優れない我々は、
二人して放屁などして笑った。
(放屁して笑いあう、というのは、
我が家では平和な日常の光景なのだ)
さすがにいつもと同じテンションでは
いられなかったが、それでも笑顔を作った。
そしてバクバクとおにぎりを頬張った。
「うん、美味しい!メンチカツも!」
買ってあったスーパーのお惣菜は脂っこく、
胃痛の上に胃もたれまでしたが、
それでも勧められるがままに食べた。
いつも通りだ。
その振る舞いは不謹慎のようにも思えたが、
どんな状況であれ前向きでありたい。
誰に押し付けられるでもなく、
それが私の生きるスタンスだ。
不登校、人間不信、リストカット、
PMSと重い生理痛、行き場のない孤独感、
自分の容姿も性格も性質も好きになれず
社会にもなじめない劣等感、
繰り返す抑うつの波。病院には行かなかったが
20代前半までは本当に生きづらかった。
だからもう、悲壮感に埋もれて生きるのは、
不足ばかり見て生きるのはやめにしたのだ。
悲劇のヒロインを演じて得るものは、
あまりいいものとは言えない。
長いこと演じてきてそう思うのだ。
ならばバカでもなんでも、生き恥をさらしても
笑えたほうがいいって、今は心から思う。
まあ、実際に堂々と恥をさらす度胸は
なかなかできないのだけれど(笑)
もちろん、悲しみの渦中では
笑えないことだってある。
苦しみのあまり何もできず動けないことも、
経験したから分かる。
それでも、逆境の中にいるときほど、
上手くいかないときほど、
そうやって明るく前向きで在る心がけが
大切だと思う。
笑える人が、笑えるときに笑うのだ。
その姿勢を他に強要する必要も、
制限する必要もない。
感情は必ず共鳴していくのだから。
まあそんなときに、
そこまでのことを考えていたとは思えないが、
誰かが笑えば、頑なになっていた悲哀の感情も、
体に入っていた力も少しは解けることだろう。
日頃から、くだらないことで笑い合える
関係性を家族で作っていてよかった、と思う。
そんなこんなで、3時間ほど
みんなで警察からの連絡を待ったが、
22時半を過ぎても一向に来ないので
一度祖父母の家から隣へ戻ろう、となった。
そのとき、初孫である私を
「孫の中で一番かわいい」といつも
言ってくれる祖母が
他のみんなが出払うのを見計らって言った。
「チロちゃんはいてくれるよね……?」
家は目と鼻の先、すぐ隣同士なのであるが、
そうにしたってこんな状況で、
誰もいない居間にひとりの寂しさったらないだろう。
私は言われる前から、祖父と、
同居の叔父がすでにそれぞれの部屋へ
寝に行ってしまったのを分かっていたので、
ひとりにはできないな、と思って
しばらくいるつもりでいた。
けれど、普段は決して弱みを見せない祖母が、
自分からそんなことを言うなんて、
ずっと気丈には振る舞っていたものの、
よっぽどのことだった。
~第一章:父が死んだ。これは夢か幻か④~