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「ヲ」ノ・ヨーコ

 「どんぐり・きょーこ」なる曲がある。

 どんぐり?

 どんぐりは美味しくないけど、どうしてこんな曲を作ったんだろう。僕はこれを聴こうとする前、頻りにこのことだけを考えていた。でもヲノの乳首を斟酌するに、どんぐりは母性のメタファーなのだから当然なのかもしれない。

 でもそう仮定すると、「どんぐり・きょーこ」は「ちくび・きょーこ」ということになる。「きょーこ」が誰だか分からないが、兎に角彼/女(ポリコレに配慮した結果!)の乳首についての曲なのだろうか。僕がまだ尻の青い小僧だった時、母親の乳首をねぶり散らかしたものだが、あれはパンパースの味だった。パンパースの尿を吸収するところを口に入れると、口の中が逆増えるわかめ現象になるが、そういう感じの味だった。

 彼女の乳首はムーニーマンなのだろうか? あの黒鼠のそれ? あれはマミーポコパンツだったが、意外とマミーのポコはムーニーマンなのかもしれない。

Don’t you want my love
Why don't you give me your love
Don’t you want my love
Why don't you give me your love...

 僕は安堵した。何故なら僕はパンパース派だったからだ。パンパースを着けること、これは一人っ子政策で生まれた小皇帝と闇っ子との身分格差の強調及び優越性の気づきでもあるからだ。これはある意味チャゲアス的だ(このことは自明だから特に言及しない!)。あの出来事を思い出す——チャゲアスのチャゲのサングラスを怒りの拳で破砕した時、それまで世界中に堆積していたある種のむず痒さ——それはチャゲ的な諧謔性に満ち満ちた精神的搔痒感——が忽ち消滅し、一つの時代が終焉を迎えたわけだが、その一方でアスカは依然としてレーズンパンのレーズンで密造酒を造っていたことを(つまりラム酒造!)。レーズンもまた乳首の暗喩なのだが、それ以前にアスカの鷹揚とした態度は、チャゲの砕け散ったサングラスの一片一片に反映された蛍光灯の淡い光であり、翳りの方へ逃げ込んだ欠片が知る由もない希望の光だった。

 僕は素晴らしい気持ちに襲われた。

 清々しかった。この清々しさを再び味わえることは出来るのだろうか? 仮令近しいものを知れたとしても、それは模造の糞だ。はて、誰がこんなことを言ったのだろうか。確かキング・クリムゾンのファースト・アルバムの先進性を理解できなかったロバート・クリストガウのほんの短い論評の一節だったはずだ。だが、この言葉——模造の糞という表現は極めて普遍的だ。例えば何かに対してこういった時、その対象は即ちハナコのshitへと変貌する。このような性質を内包している時点でこの表現は永遠なのだ。

 ヲノの「どんぐり・きょーこ」aka「ちくび・きょーこ」は果たして模造の糞なのだろうか? 全ての可能性は決して言及され尽くされない。アカシック・レコードというのは神のために存在するのであって、僕たちのためにあるのではない。僕たちは調べることしか出来ないのだ——だけど、それも限界があるものだ。

 大辞林で色々なことを調べてみる。例えば「佐野元春」。彼のことは調べても出てこなかった。「佐野」という項目に付随する小項目——「佐野学」と「佐野洋子」の間を百三十二回確認したが、結局前者が社会運動家で、後者が絵本作家という情報しか得られなかった。無限降下的な循環をすることすら出来ず、僕の作業は終了した。

 勿論これは極端な例だ。誰だって「佐野元春」が大辞林に記されているとは考えないだろう。「佐野元春」は精々若者で言う「ときど」のようなもので、「ときど」が大辞林に載っていないならば当然「佐野元春」も載っていないのだ。だが僕たちは往々にしてこのような現象に陥るもので、周辺にある出来事は言わば巨大な大辞林に記載されているものの、いくつかはそれから外されてしまって、調べようもなかったりする。僕たちが何かを調べる際に用いる辞書や参考書などの文献は言わばアカシック・レコードを真似た単なる糞に過ぎない。

 だからヲノの「ちくび・きょーこ」が僕にとってパンパース風味の乳首であり、アスカが天日干しをしたレーズン的乳首なのかは調べようもない事象であり、一体ときどはどのような結末を迎えるのか、溺死なのか感電死なのかという未来予想を立てるぐらいナンセンスなのだ。この曲が如何なるものかを知るためには——最早僕が直接聴くしか方法は無い。

 早速Spotify(これの発音が「スポ↑ッティファイ↓」なのか「スポーティ→ファイ↑」なのか「ス↓ポティ←ファイ↑」なのか分からないから取り敢えずこう表記する)で聴いてみる。

あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああおあおおおおあおおおおおおおおおおおおお」と軽快な滑り出し、バックはレノンとクラプトンのギター。僕はリシャールを頬張るようにして味わいながら(卑しんぼ!)、このヲノの叫びを堪能する。これはある種のオリエンタルラジオならぬオクシデンタルテレビ(パペットマペットでいうぞうくん)だ。少なくともそのような味わいがある。

どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり、どんぐり」ヲノの狂気的などんぐり願望は決してリスナーを飽きさせない。寧ろ「どんぐり」とチャントが展開されるたびに魅了させてくれる。頬張り切ったリシャールを喉に流し込むと、僕はむせて一気に吐き出した。

どんぐりいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」一体何秒叫んでいるんだ? 測ってみたら凡そ二十秒だった。間違いない、僕は確信した、彼女は、つまりチップとデールでいうクラリスは潜水の才能がある。

 再び、「どんぐり」の渇望を示した、いや実際これは「どんぐり」と言っているのだろうか、この意味を有しているのか分からない叫びを呈した後、「きょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおこおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおどんぐりいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」と泣き喚き、この曲は幕を閉じた。山羊のようなしかし栗鼠のような思いの吐露は僕の目に涙を湛えさせた。

 親のクレカを勝手に使い、更にサラ金に手を出してまで金を借り、買ったリシャールはもう聴き始めてすぐに底を尽き、さっきのゲロは床で水たまりのようになって蛍光灯の光を反射させていたからインテリアとして捉えてもいいのかもしれない。

 僕は満足してヘッドフォンを取り、リビングに向かい、テレビを点けた。古い型のテレビは電源が点いて暫くしてから番組を表示したのだが、そこには一躍時の人となった元フィギュアスケーターで自称第六天魔王の末裔こと織田信成くんが白目を剥いてエクトプラズムを吐き出していた。


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