【創作論】歴史・時代考証に関するスタンス
歴史時代小説で、考証はどこまでするべきか?
こうした質問が時々届く事がある。
その度に答えているのだが、改めて記事として「自分自身に言い聞かせる」為に残しておこうと思う。
また、これを誰かに強要する気は毛頭ない。あくまでも僕だけのルールだ。
なので、「こんな考えもあるんだね」と思って聞いていただきたい。
では、本題に入る。
考証はするべきかどうか? するとしてどこまでするべきか?
これについての僕の答えはこうだ。
「好きにしたらいい」
小説はエンタメであり、フィクションである。
極論「面白ければいい」が許される、無頼なアートだと思う。つまりは、面白ければ考証をしようがしまいが関係ないのだ。
そもそも読者の多くは、ストーリーを読みにきているのであって、考証を読みにきているわけではない。
それに関しては、尊敬する葉室麟先生の言葉を読んでいただくとして――
と、これを読んでいただければ、とやかく僕が言う必要は無い。
逆に面白くなければ、考証面の荒さが目立ってくる。物語に没入出来ないから、気になってしまうのだろう。
では、僕は一体どのようなスタンスでしているのか?
端的に言うと、「いいとこどり」である。
必要な考証は反映させ、そうでもない考証は無視する。
その代表的な例が、居酒屋の描写。
江戸時代の居酒屋はイスやテーブルが無いというのが一般的だ。
しかし、僕はそれを丸っと無視している。
無視した上で、時代劇でありがちな土間にテーブルとイスを描写している。
理由は簡単。読者にイメージしやすくする為だ。
江戸時代が好きな人はご存知だろうが、そうでない人はそうでもない。ならば後者に合わせようという事だ。そこに文字数も割きたくはないですし。
※もちろん、そう書いている作品を非難しているわけではない。
あともう一つ。
武士言葉を、使わない。
いわゆる「拙者」「ござる」「それがし」「かたじけない」の類だ。
それらを禁じ、私や俺、僕や君など違和感が無い範囲で現代的な言葉を使っている。
その理由は上述したような事もあるが、それと同時に作品の雰囲気を表現する為でもある。
僕の作品は、硬質なハードボイルドであると同時に、アーバンなノワールでもある。ゴリゴリのヒップホップ、とりわけ「Write This Down」が似合う、スタイリッシュでブラックな暗黒時代小説である。
そんな作品に、「ござる」は全く似合わない。
そのような感じで、僕は自分の都合のいいように時代考証を選り好みをしているわけだが、その上で僕が自分自身に「これだけはダメ」だと禁じている事がある。
1:読者或いは世間に深い悲しみや苦しみを与えたデリケートな題材に関しては、中途半端な考証はしない
例えば、震災。ハンセン病。水俣病。差別問題。いじめ問題。実際の事件など。
それが表現者としての礼儀でもあると思うし、題材にする上での最低限のマナーと考えている。特に現在進行形で苦しみが続いているものに関しては、絶対に無責任な記述をしてはならない。
2:歴史上の人物にマイナス要素を持たせる場合、根拠の無い悪評を持たせない。
例えば、Aという大名が暴君だった、或いは精神疾患を患っていたというものだ。
史実にそうした記述があれば構わない。また何かしらの根拠があり、それを拡大解釈する事もいいだろう。それは歴史エンタメとしては、常套手段だ。
しかし、その人物の「経歴」には存在しないマイナス要素を加えるぐらいなら、最初から架空の人物にした方がいい。これは、いわゆる僕が僕だけに課している「故人へのリスペクト」の問題だと思うわけだ。
※もちろん、そう書いている作品を非難しているわけではない(2回目)
以上が、僕の歴史・時代考証に対するスタンスである。
来年、この考えに基づいた時代小説を刊行する。
どのようなものに仕上がったか、どうぞ読んで確認してくれると嬉しい。
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