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夜の多摩川を自転車で

金曜日の夜、僕は多摩川の河川敷を自転車で走っていた。僕の1番好きなバンド、クリープハイプの尾崎さんが書いた小説「転の声」のサイン本を二子玉の蔦屋家電まで受け取りに行くのだ。

今朝、クリープハイプの公式サイトでサイン本が各書店に並ぶという情報を知った。書店の名前に「蔦屋家電 二子玉川店」の文字。僕ん家からはわりと近い。仕事の隙を見計らって書店に電話を架けて、取り置き出来ないかとお願いしたところ、「今日中に受け取りに来るなら可能です」と言われた。仕事が終わってすぐに行けば間に合う。僕は「絶対取りに行きます!」と力強く言って電話を切った。

仕事終えてそのまま電車で向かえばいいのに、僕は1回家に帰って自転車で行くことにした。二子玉までだとちょっとの交通費がかかる。このちょっとの交通費をケチって多摩川の河川敷を走ることにしたのだ。家に帰って水を一杯飲んだ後、すぐに自転車に乗って走り出す。僕の通っていた中学校の裏の道から多摩川の河川敷へ上がる。ここからはずっと一直線。このまま30分ほど走っていれば二子玉に着く。

夜の多摩川は暗いけれど、懐かしい道だった。僕は中学の水泳部でよく多摩川を走らされた。冬の時期は泳げないから、筋トレの一環として。走るとすぐに横腹が痛くなるから嫌いだったけど、町の風景を見るのは好きだった。その頃と全く変わらない町並み。

夜風が心地よくて、自然とペダルを踏む足も軽快になる。それでも、後ろから来るマウンテンバイクには勝てなくて、凄い速さで何人にも抜かされた。僕の自転車にはギアが付いていない。どんなに疲れても、同じ強さでペダルを踏むことしか出来ない。小さくなるマウンテンバイクを追いかけながら、ギア付きの自転車をケチって買わなかった自分を少し後悔した。

足に疲れが溜まってきた頃、西松屋が見えてきた。部活の練習の折り返し地点が西松屋だった。あの可愛らしいうさぎのキャラクターを見ると、帰れると嬉しさがこみ上げていたものだ。ここまで自転車で来るのも大変なのに、あの頃は自力で走ってきたんだと思うと、中学生の自分が誇らしくなる。今はそんな体力は絶対にない。

西松屋を過ぎると、急に車道しか道が無くなる。自転車は河川敷を降りないといけない。坂道を下って広い道を走るけど、辺りが暗すぎて怖くなる。街灯も何もないから自転車のライトだけが頼りだった。伸びている草木がお化けに見えてくる。

突然、真っ暗闇の中からプワーっと大きな音が鳴った。ビックリして目をやると、トランペットを練習してる人がいた。川に向かって懸命に吹いている。多摩川にはこういう楽器を演奏してる人はいるけれど、夜にまでいるとは思わなかった。ここなら住宅街からは離れているし、誰にも迷惑をかけずに心置きなく練習出来るのだろう。僕はその人の演奏に耳を傾けながら、横を通りすぎた。

遠くの方に明かりが見えてきた。二子玉のビル群の明かり。東京側の景色が華やかに映る。大きな橋も見えてこの橋を渡れば、二子玉はすぐだ。僕はまた河川敷に出るため、自転車を押しながら階段を登る。橋の上に出ると、急に空が大きく見えた。仕事から帰る人たちとすれ違って、毎日ここを渡っている人がいると思うと羨ましい気持ちになる。

僕は自転車を駐輪場に留めて、そのまま真っ直ぐ蔦屋家電に向かった。レジの店員さんに名前を伝えると尾崎さんの本が出てきた。この瞬間のために、漕いできたんだ。今月行われた尾崎さんのサイン会は外れてしまった。尾崎さんが本を刊行するたびに行われるサイン会は高校生の頃からずっと応募しているのに、1度も当たったことがない。こうしてサイン本が手に入ったことは嬉しいけど、本当はいつか尾崎さんの手から直接本を受け取りたい。あなたのおかげで自分も文章を書き始めたと伝えたい。その夢はまた次回にお預けだな。

目的を達成し、せっかく二子玉まで来たからこのまま夜ごはんでも食べようと思った。両親が北海道旅行に出掛けているから家に帰ってもひとりだ。しかし、一通りレストラン街を見たけれど、食べたいものがなかった。それに二子玉のレストラン街に1人で来ているようなひとはいない。友達や恋人、家族と来ている人がほとんどでこんな自転車を漕いで汗だくになっている男なんていない。この街に僕は似合わない。

熱々のラーメンが食べたい。

無性にそう思った。近所のラーメン屋に行こう。滞在時間10分、帰ることを決意する。僕はまた同じ河川敷を1歩1歩ペダルを踏みしめながら、来た分の時間をかけて戻っていく。さすがに行きよりも帰る方が疲れた。でも、イヤフォンから流れるクリープハイプの曲たちが僕の心をゆったりとした気持ちにしてくれた。

ラーメン屋に着いて、お水をぐびっと飲んだ。喉が潤って気持ちがいい。2杯目も続けて飲んでしまった。その後に来たラーメンを汗だくになりながら食べる。いつも食べているのに、今日はなんだか一段と美味しく感じた。



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