衣裏繫珠
『法華経』は喩え話が多いお経だ。中でも有名なものが七つあり、「法華七喩」と呼ばれる。「衣裏繫珠の喩え」はその中のひとつ。
ざくっと内容を説明すると、
…という話。
仏教的に解釈すると貧乏な旅人は日々悩みの中にいる我々衆生のことであり、そこに宝石を縫い付けてくれていた友人がお釈迦様。宝石とは「誰でも仏になれる」という「仏種」を指すとされる。
実は僕は法華七喩のうちこのひとつしか詳細を覚えていない。それだけこのエピソードに惹かれる何かがあったのだろう。宗教的な視点から少し離れてこれを人生に置き換えると、不幸だと思っていた自分の人生には実は感謝すべき多くの人とのご縁や出来事に溢れていた、ということだと思った。要は「物の見方を変える」ということだ。
逆境のない人はいないし、悩みは常にある。だが、そこにばかり着目して不幸を嘆いている限り人生の苦行からは抜け出せない。
それよりも、そんな中にあってもここまで自分がやってこれたのは授けられた宝石、つまり自分を支えてくれた人や物があったからだと気づき、更には逆境すら見方を変えることによって「学び」という宝石たり得ることに気づく、ということが大事なのだと思った。見方を変えることで世界は変わるし、見方を変えなければ表面的に裕福になっても心の貧しさからは抜け出せない。
たまたまこの記事を書く前、YouTubeで表示されたひすいこたろうさんの動画を見たら「不幸な人は宝石をたくさん持っている。それに気づけていないだけ」という内容が語られていた。「衣裏繫珠の喩え」には言及されていなかったがまさにこのことだと思った。更に心強かったのは「見方を変える前と変えた後で人生に起こることは変わっていない。ただ見方が変わったから受け止め方が変わり、その結果世界が変わった」という話。幸せな人には幸福しか来なくて、不幸な人には不幸しか来ない…訳ではない。ただ見方、受け止め方が違うのだ。ネガティブなことの裏にはポジティブなことが隠れている。そのどちらを見るかで幸不幸が分かれる。
僕はあまりにもネガティブな出来事に着目する癖がついてしまっていて、その裏にある宝石の存在に気づけていなかった。ただ、無意識のうちにそのことを自覚していたから「衣裏繫珠の喩え」が気になっていたのだろう。長年の思考の癖を一瞬で変えることは難しいかもしれないが、今あることに感謝するところから始めてみようと思う。