見出し画像

西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の17]

4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

673. 西洋思想史のなかで、愛を高く評価する思想の源泉というと、プラトンのエロース(eros, ἔρως)論、アリストテレスのピリアー(philia, φιλία)論、キリスト教のアガペー(agape, ἀγάπη)論の三つを思いつきます。これから、愛についてのこれら三つの考え方を、順番に紹介し、検討していきます。三つは、それぞれ少しずつ違う角度から、愛という精神の運動を特徴づけている。
 (なお、これまで「philia, φιλία」を、「フィーリア」と表記していましたが、これは長音記号「ー」の位置がまちがっていた。私の記憶違い。「ピリアー」に改めます。「philia, φιλία」は、第一音節の「i, ι」は短母音で、末尾の「a, α」が長母音でした。なお、「phi-, φι-」を「フィ」でなく「ピ」と表記するのは、今はこう読むことが多いのと、以下で参照した翻訳に合わせるためです。)

674. 「エロース」は、希英辞典をみると、「desire, love」といった英語が当てられている。日本語なら「欲望(欲求)、愛」でしょう。「ピリアー」は、「friendly love, affection, friendship」とある。これは「友愛」でよさそうです。「アガペー」は、「love: esp. brotherly love, charity; the love of God for man and of man for God, NTest」と説明されている。「愛」なのだが、特に「同胞愛、慈悲心」を言い、新約聖書では「神から人への愛、人から神への愛」の意味で用いられるということです。これら三つは、いずれも「love」であるという共通性を持ちつつ、意味の焦点が少しずつ違っている。

注: ペルセウス(Perseus Digital Library (tufts.edu))というタフツ大学が開設しているサイトで、西洋古典学関連の原典、英訳、辞書など多数の資料が無料で利用できます。大変便利なサイトです。ギリシア語の辞書は、Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon, Α α, (tufts.edu)で参照できます。

675. 私が、本ブログで、愛という精神の運動に関心を寄せるにいたったのは、現代の日本語人は自分自身の内に「ものごとを実現していく根底の力」を感じることができているだろうか、という問いを通じてでした(2の16:653)。漱石の描いた明治期の個人は、自分の愛を貫くことができず、共同体に屈服するほかなかった(同654)。

676. 漱石は『文学論』で、「吾人は恋愛を重大視すると同時にこれを常に踏みつけんとす」(『文学論』上、岩波文庫p.109)と語っています(2の5:157)。明治の文学青年たちは、恋愛を神聖なものと見ることを西洋を通じて学んだのですが、一般社会は恋愛を罪悪とみなした。それゆえ、漱石は「尋常の世の人心には恋に遠慮なくふけることの快なるを感ずると共に、この快感は一種の罪なりとの観念附随し来ることは免れ難き現象」(同上)である、と言わざるをえなかった。この罪の意識のせいで、漱石の作品の登場人物は、各人各様の仕方で自己処罰へと追い詰められます。恋愛に罪の意識が付随するかしないかは、「東西両洋思想の一大相違」(同上)と言ってよい、と漱石は述べています。こういった相違のよって来る所以を探る、というのがこれからの目標になる。

677. また、漱石からさかのぼって宣長の「物のあわれを知る」の説を検討し、これが恋愛を肯定する独特の思想であることを確認しました。宣長は、他人の妻に恋心を懐くような愚かで未練な気持ちを、あえて肯定した(2の12:472、2の16:663-665)。だが同時に、「物のあわれを知る」ことは、社会の根本原理としては力不足であることも明らかになった(2の16:671)。しかるに、西洋の伝統では、愛は人間社会を成り立たせる根本原理の位置にある。エロース、ピリアー、アガペーのどのような特徴づけが、西洋文明における愛に、「物のあわれを知る」ことと違って、社会的な原理としての力を与えるのか。この問いは、愛の思想の東西における相違として、特に関心のあるところになります。

4.4.3.1. エロースについて

678. エロース(愛)を主題とした作品は、プラトン(前427-前347)の著作のうちに、『饗宴』と『パイドロス』の二篇があります。どちらも壮年期のプラトンが、師ソクラテスの語りにことよせて自分の考えを述べたと考えられる代表作です。『饗宴』は、ある宴会の席で、客たちが、エロースを讃える演説を次々に披露した次第を語るもの。客の一人としてソクラテス(前470/469‐前399)がいる。その語る内容が一篇の中心となっています。『パイドロス』の方は、パイドロスという青年とソクラテスの対話です。この一篇は、エロースをめぐるある弁論家の演説に対する批判を軸にしています。前半でその弁論家が作った演説のあらましをパイドロスが紹介し、次いでそれを批判するソクラテスの二つの演説が行われる。後半は、そのような演説の技術としての弁論術一般に対する批判が主題になる。『パイドロス』にも興味深い議論は多々あるのですが、以下では『饗宴』を中心としてエロース論を紹介します。

679. 『饗宴』は、悲劇作家アガトンが最初の悲劇作品で優勝したとき*に催した宴会が舞台になっています。その宴会の席上でエロースを讃える弁論が行われた。このときの弁論のことを、十数年後にアポロドロスという人物(ソクラテスの弟子の一人)が友人に語ってきかせる。こういう設定になっています。主な内容は6名の人物の弁論の紹介で、そのなかで哲学的に重要なのはソクラテスの語った内容だけといってよい。たとえば、喜劇作家アリストパネスの弁論は、滑稽で面白いものですが、哲学問題として論ずべき内容はほとんどありません。

注*: アテナイでは、大ディオニュシア祭とレーナイア祭(小ディオニュシア祭)のときに劇作品の競演が行われた(Graham Ley, A short introduction to the Ancient Greek theater. The University of Chicago Press, 1991.)。アガトンが優勝したのは、前416年のレーナイア祭とされる(鈴木照雄「『饗宴』解説」『プラトン全集 第5巻 饗宴 パイドロス』岩波書店1974、p.275)。

ソクラテスとアガトンの対話
680. ソクラテスは、6名の弁論の最後にみずからの見解を述べます。皆のエロースへの讃美は見事なものだったが、エロースについて〝真実〟を語るというよりは、エロースが美しくよきものに〝見える〟ように語るものだった(199A)*。そう指摘し、自分は真実のことを語るがそれでよいか、と宴席の人々に念を押します。

注*: 「199A」は、1578年に出版されたステファヌス版プラトン全集のページ数と段落付けを示す。プラトンの著作の出典表記の慣例。これは訳書等では欄外に記されています。なお『饗宴』の訳文は、『プラトン全集 第5巻 饗宴 パイドロス』(岩波書店1974)所収の鈴木照雄訳によります。

681. ソクラテスは、もともと雄弁な演説というものに極めて低い評価しか与えない。演説ではなく、一問一答を繰り返して事実と論理をひとつひとつ確かめること、そして、対話を通じて相手とともに堅固な認識に至ることを好みます。真実と、真実に見えるものは厳格に区別せねばならない、という考えが背後にある。効果的な演説の仕方を教える弁論術は、真実に見えるものを扱う技術にすぎない。知を愛すること(φιλοσοφία、philosophia。ピロソピアー(哲学))とは相反する。そう考えている。

682. 『饗宴』で人々に求められて弁論を披露するときも、ソクラテスは、直前にエロースの美と徳を讃える弁論を行なったアガトンを相手にして、一問一答を始めます。最初の問いは、「エロースはあるものへの恋というような性質のものなのか、それとも対象のないものなのか」(199D)というものです。アガトンは「それはもうあるものへの恋です」(199E)と答える。次なる問いは、

「「あるものへの恋であるエロースは恋の対象になっているものを欲求するのか、それともしないのか」
 「もちろん欲求します」
 「エロースが欲求し恋い求めるのは、その対象を持っているときのことなのか、それとも持っていないときのことなのか」
 「持っていないときのことですよ、おそらくはね」」(200A)

 ここでソクラテスは、「おそらくはね」というアガトンのなにげない追加に食いつきます。「おそらくというのではなく、必然的にそうかどうかを」(200A)考えてみてくれ、と求める。アガトンはすぐに、必然的にそうだ、と同意する。けれども、ソクラテスはこれで満足しないのです。

683. 世には、すでに強いのに強くありたいとか、健康なのに健康でありたいとか、金持ちなのに金持ちでありたい、という人はいくらもいる。これは、「自分の持っているものをなおも欲求する」(200C)ことにほかならない。すると、エロースはあるものを持っていないときにそれを恋い求めるのであり、かつ、それは必然的である(必ずそうである)、というのは間違いだったことになる。どうなっているのか。ソクラテスは、こんな問いをわざわざ派生させて、問題を紛糾させます。

684. 「さてアガトン、君も考えてみればわかることだが……」(200C)といって自分が派生させた問いを引き取り、「君が自分は現に有るものを欲求すると言う場合には、それは、現在有るものが将来にわたっても存在してほしい、というまさにその意味」(200D)であるはずだ、とソクラテスは指摘する。将来にかかわる欲求は、今はまだ自分の手もとにないもの(未来における強さ、健康、金など)を欲求することにほかならない。だから、欲求と恋の対象は、やはり自分が持っていないもの、自分に欠けているものだと言ってよいのだ。そう結論されます。

685. このあたり、元哲学教師としては、やってるなぁ、と苦笑してしまう。ソクラテスってこういう人だよな、というか、哲学ってのは、こういう風なもんだよな、というのが正直な感想で、私はこれが好みに合うのですが、合わない人もいるだろう。一度は同意された結論に、わざわざ異論を立て、別の例を挙げ、場合分けしながら細かく考える。そして、やっぱりこうだったとか、いやこれは違っていたとか、新たな結論を導く。哲学はこういう作業の積み重ねです。そして、現代の学問は、自然科学も含めて、本質的にこういうものでしょう。これに対し、異論を立てたり実例で吟味したり場合分けしたりせずに、雄弁の力で言葉巧みに押しきる。これが弁論術のやり方で、ソクラテスはこれをしりぞけるわけです。

686. いま見た一問一答は、さしあたり穏当な結論に到達しました。恋(欲求)とは自分に欠けているものを求めることだ、というのは認めてよさそうです。しかし、アガトンにとって予想外のなりゆきが待っている。それを見ましょう。

687. ソクラテスはここまでの要約として、「エロースはまず第一に、あるものに対してであり、しかも第二に、自分に欠けているものに対してである、というのではないかね」(200E)と問います。アガトンは「そうです」と同意する。

688. ここでソクラテスは、先に行われたアガトンの弁論の趣旨を確認します。それは、神々の間では美しいものへの恋(エロース)がもとになって、ものごとが整えられ秩序立てられた、そういう趣旨だったのではないか。アガトンはそうだと答えます。つまり「エロースとは美への恋であって、醜への恋ではない」(201A)のであり、これは「道理に適っている」(同)。ソクラテスはこう念を押します。

689. しかるに、先だって、欲求と恋の対象は、自分が持っていないもの、自分に欠けているものだ、ということは同意されていた。すると、こうなる。エロースは美への恋なのだから、「エロースは、美を欠き美を持っていないわけだ」(201B)。アガトンは同意します。

 「「美を欠き全然美を所有していないものを、君はいったい美しいというだろうか」
 「いや決して」
 「もし事実がその通りだとすると、それでもなお君はエロースの美しいことを認めるかね」」(201B)

ことここに到って、エロースを美しいものとして雄弁に語ったアガトンは、「ぼくにはあのとき自分の話したことが何一つわかってはいなかったようです」(同)と認めざるを得なくなります。

690. ソクラテスは、「よきものはまた美しくもあると君は思うかね」(201C)と尋ね、同意を得ると、「それでは、もしエロースが美しいものを欠いており、しかもよきものは美しいものであるとすると、エロースはまたよきものを欠いていることになるだろう」(同)。アガトンは「事実はあなたの言うとおりだとしましょう」(同)と答えるほかなくなります。

691. 何が起こっているのか。元々、アガトンは、エロース(恋の神)は美しい存在で、かつ正義と節制と勇気と知恵の四つの徳を備えており(195A~197B)、「この神(エロース)が生まれるや、美しいものを恋い求めることからして、神々にも人間にもすべてのよきことが生じた」(197B)と語ったのでした。しかし、ソクラテスと一問一答を繰り返すことで、エロースは美しくなく、よきものでもないことを認めるざるを得なくなった。

692. 出発点は、エロースは何かあるものへの恋である、という自明のことへの同意にすぎない。だが、事実と論理を確認する一問一答によって、アガトンは、自分の考えが誤りであることに気づかされるに到った。こういう経過は、プラトンの初期対話篇*(たとえば『ラケス』)に典型的に見られるものです。「○○とは何であるか」という問いが立てられ(『ラケス』では「勇気とは何であるか」)、ソクラテスは、何であるかを自分は知らないという立場で、相手と一問一答を繰り返す。最終的に、対話相手もまた、ソクラテス同様、それが何であるかを知らないのだ、という無知を確認して対話が終わります。

注*: プラトンの27の対話篇は、初期、中期、後期に分けられます。有名な作品でいうと、『ソクラテスの弁明』『クリトン』などは初期の対話篇とされる。中期には、『パイドン』『国家』『饗宴』『パイドロス』『テアイテトス』など、プラトンの代表作が入る。後期には、宇宙創成をあつかった『ティマイオス』などがあります。(『岩波 哲学・思想辞典』(岩波書店1998)の「プラトン」の項より。)

ソクラテスの語り ――ディオティマとの対話
693. 『饗宴』は、初期の対話篇とはちがって、無知の確認で終わらない。ソクラテスはアガトンとの対話を打ち切りますが、引き続き自分が昔ある知者と対話したときのことを語りはじめます。そのなかで、プラトンのエロース論が積極的に展開されていく。その対話の相手は、マンティネイアの婦人ディオティマと紹介される。これはおそらくプラトンが作った虚構の人物です*。恋の道について知っているのはディオティマであり、ソクラテスはその教えを受けるという位置づけになっている。

注*: 鈴木照雄、前掲解説(679注)pp.292-292。

694. その頃のソクラテスは、アガトンと同じように、エロースは偉大な神であり、美しいものに向かうものだと考えていた。だが、ディオティマは、ソクラテスがアガトンに対して使ったのと同じ論法で、「エロースは美しいものでもよいものでもない」(201E)ことを示した。ソクラテスが、ではエロースは醜いものなのか、と問うと、ディオティマは、エロースは美しくよきものではなく、したがって神ではない。だが、かといって醜いものでもなく、「何か中間的なもの」なのだと告げる。それは偉大な神霊(ダイモーン)であって、「死すべきものと不死なるものとの中間にある」(202D)のだと。

695. 神々ならば、現に知者であるから知を求めることはない。無知蒙昧な者も知を求めはしない。知と無知の中間にある者だけが知を愛し求める。
「知は最も美しいものの一つであり、しかもエロースは美しいものに対する恋(エロース)です。したがって、エロースは必然的に知を愛する者であり、知を愛する者であるがゆえに、必然的に、知ある者と無知なる者との中間にある者です。」(204B)

696. 『饗宴』において、エロースは、自分に欠けたものに対する恋(欲求)という心理状態であり、かつ、その心理状態の化身としての神的存在でもある、というように一貫して語られています。心理状態と具体的存在を自在に往復するのでややとまどうのですが、ここでは、知と無知の中間の状態が、知を求める存在として語られている。エロースは本来的に知への愛であるというのは一つの伏線になります。

697. エロースは、しかし、恋愛であり性的な愛です。この性愛の要素が次にディオティマの話に導き入れられる。「恋とは…(中略)…ソクラテス、あなたの考えるように、単に美しいものを目指すというものではないのです」(206E)。では、ほかに何を目指すのかというと、「美しいものの中での出産と分娩を目指すものなのです」(同)。ディオティマは、次のように語ります。

「ソクラテス、すべての人は肉体的にも精神的にも妊娠して〔生むものを持って〕いるのです。そしてある年齢に達すると、自然にわれわれの本性は産むことを熱望します。…(中略)…男女の交わりがひっきょう出産というわけだからです。そしてこの行為は神的なものであって、それは死すべきものである生物のうちに、不死なるものとして内在しているのです。この妊娠と出産とはね。…(後略)…」(206C、なお〔 〕内は、訳者の鈴木照雄による補足。)

恋する者は、男女の交わりを通じて出産と分娩を目指す。「死すべきものとしてこの世にあるものにとって、出産は永生不死のもの」(207A)である。「恋の目指すものが、よきものを永遠に自分のものとして持つことであるならば」(207A)、人間が不死を欲求するのは必然である。人間は、死すべきものでありながらも、「永遠に存在し不死であることをできる限りにおいて求めるもの」(207D)であるがゆえに、恋に衝き動かされるのだ。

698. わかりにくいので、整理します。動物は、性的欲求に衝き動かされて交尾し、子孫を残す。人間もまた、子孫を残すことによって、永続性(不死性)にあずかる。よきものを得たいという欲求(エロース)は、当然、よきものを永遠に我が物としておきたいという欲求なのであり(206A)、性愛(エロース)は人間がこの永遠性(不死性)に到るための根源の力である。エロースに衝き動かされ、自分を越えて残るものを産みだすことによって、人は不死なるものに参与する。すなわち、エロースは不死(永生)を求める欲求なのだ。というわけで、これがもう一つの伏線になります。

699. エロースは本来的に知への愛であり(696)、かつまた不死を求める欲求である(698)。ここから予想されるのは、知への愛(エロース)によって不死を得る、という段取りでしょう。二つの伏線を回収すれば当然そうなる。ディオティマの話はそういう方向に進みます。ディオティマは、恋の道の秘儀について、一問一答の対話の形式は捨てて、独りで滔々と語ります。かなり長いので(210A~212B)、かいつまんで紹介します。

700. 「このこと〔恋の道の最奥の秘儀〕へと正しい進み方をする者は、未だ年若いうちに、まず手始めに美しい肉体に向かう必要があります…(中略)…最初一つの肉体を恋求め、ここで美しい言論を産みださなければなりません」(210A なお〔 〕内は私の補足)。

エロースの道の入り口は、とにかく、美しい肉体を恋い求める性的な愛です。この段階で「美しい言論」を産まねばならないというのはやや意外ですが、何かを産みだすことによって不死性にあずかる、という基本的な図式に合わせるとこうなる。具体的には、恋人や恋そのものを讃える弁論や詩を作ることだと思います。

701. 次には、「どの肉体における美も他の肉体における美と兄弟関係にある」(210B)ことを見て取り、「すべての肉体における美を同じ一つのものであると考える」(同)ようにして、「美しい肉体全部を恋する者」(同)とならねばならない。すべての美しい肉体を恋する者となるとは驚かされますが、これは通過点です。

702. エロースの道の次の段階は、魂の美に目覚め、魂をよりよくするような言論を求め、生み出す、というものになる。すなわち、

「その次には、魂のうちにある美を、肉体のうちにある美よりも貴重なものと見なし、そのために、たとえ肉体の花の輝きに乏しくても、魂の点で立派な者がいるならば、満足してその者を恋しその者のために心配し、そして若者たちをよりよくするそのような言論を生み出し探し求めるようにならなければなりません。」(210C)

703. 魂のうちにある美は、「人間の営みや掟に内在する美」(210C)と言いかえられている。諸々の人間的な活動の美を言うようです。人間的活動の美についても、それはさまざまな形で存在するが、すべて互いに同類であることを見て取ることが求められる。一つの肉体の美からすべての肉体の美へと進んだのと論理的に同じ要求で、多数の事例に共通する普遍性を見て取ることが必要なのです。

704. さらに、すべての人間の営みの次に、もろもろの知識へと向っていかねばならない。そして、「もろもろの知識の美を観取し、その眺める美もいまや広大な領域にわたる」(210D)ようにならねばならない。というのも、一人の少年の美とか一つの営みの美をありがたがるような「眼界狭小の人間としてあることのないように」(210D)するためです。「美の大海原に向い、それを観想し、惜しみなく豊かに知を愛し求めながら、美しく壮大な言論や思想を数多く生み出〔す〕」(210D)ことが求められるのです。

705. 読んでいると、大体このあたりがエロースの道の最高到達点なのかなと思ってしまいますが、まだ先がある。でも、プラトンの考え方の特徴は、ここまででも十分わかります。個別的・感覚的なものを越えて、普遍的・知性的なものを追求することをよしとする。この傾向は、はっきりしている。一つの肉体の美からすべての肉体の美へ、一つの魂の美からすべての魂の美へ、一つの知識の美からすべての知識の美へ、というのが、恋(エロース)の道行きになっています。肉体の美から人間の活動の美へ、活動の美から知識の美へ、というように抽象性の度合いが高まっていく(感覚的でなくなり、普遍的になる)わけです。しかし、これで終わりではありません。

706. 「さて、いろいろの美を順序を追って正しく観ながら、恋の道をここまで教え導かれてきた者は、今やその恋の究極目標に面して、突如として、本性驚歎すべきある美を観得することでしょう。これこそ、ソクラテスよ、じつにそれまでの全努力の目的となっているところのかのものなのです。」(210E 太字は原文では傍点)

恋の道を歩む者が最後に観ることになる〝かのもの〟の特徴は、こう記されています。「第一に、永遠に存在して生成も消滅もせず、増大も減少もしない」(211A)。「次に、…(中略)…それ自身、それ自身だけでそれ自身とともに、単一な形相をもつものとして永遠にある」。(211B)

707. 一体これは何か。これが「美そのもの」つまり、「美のイデア」です。恋の道の最高到達点は、「まさに美であるそのものを遂に知る」(211C)ことにある。美そのものを観ることが、恋い求める道の最奥の秘儀であるとされます。

708. この〝美そのもの〟はどう説明されているかというと、それはある面では美しいが他の面では醜いというようなものではない。ある時は美しいが他の時には醜いというのでもない。ある人々にとっては美しいが他の人々にとっては醜いということもない。そしてまた、その美は、何か特定のものにおいて現れるわけではない。顔でもなく、手その他身体に属するいかなるものでもなく、言論や知識の形で現れるのでもない。こんな風に説明されます。(211A)

709. つまり、相対的な美しさではなく、特定の個物の美しさでもない。絶対的で、普遍的で、不生不滅の唯一の美そのものとして永遠に存在する。こういう美です。念のために言うと、美のイデアとは美の概念なのだと言いたくなりますが、この解釈は当たらない。というのも、美の概念は、美しいものではないのに対し、美のイデアは美しいとされるからです。美しさそのものである永遠不滅の美のイデアを観ることによって、不死なるものにあずかること、これが恋の道の最奥の秘儀とされます。 

710. 要約すれば、恋であり欲求であるエロースは、自分に欠けているものを追い求める人間のうちの根源的な力であって、これによって人間は永遠不滅のイデアの世界を観照して不死性に参与することができるのだ。プラトンはこう言っていることになります。

「いろけの始まりは知恵の終り」
711. 30年以上前、とある短大で、非常勤講師として哲学の授業を担当したことがありました。哲学とは知を愛することであって、というお決まりの導入から、プラトンによれば恋心から知を愛することへと進むんです、といった話をしました。そうしたところ、学期末のテストだったかレポートだったか、授業の感想として、「高校の時、生活指導の先生に、いろけの始まりは知恵の終り、と言われました。違えば違うものですね」とあった。愛について東西の違いがどんなに大きいかを思い知らされた忘れがたい経験です。

712. 『饗宴』のエロース論は、性愛について、また知識について、日本語人が暗黙に抱いている了解とはまったく相反する主張を展開しています。ですが、一つプラトンなるものをば勉強しやう、と思って読むと、そういうところは目に入らなくなる。そんなとき、「いろけの始まりは知恵の終り」という卓抜な警句は、日本社会の土着の心性をあからさまに表現していて、プラトンの発想がどんなに日本語人の常識から遠いのかを余すところなく浮かび上がらせてくれます。以下、プラトンの所説が日本語人の暗黙の了解と食い違うと思われるところを、二つほど指摘します。

713. 第一に、現代日本語人は、性愛から知への愛へと進む道筋があるとはあまり思っていないだろう。もちろん、肉体の美しさを追い求める段階から、魂の美しさを追い求める段階へ進む、という考え方は、理解できるし、同意する人も多いかもしれない。けれども、これを理解するとき、肉体の美を求める段階の自然な発展として、魂の美を求める段階に到達する、とは思わないのではないか。肉体の美を求めることの否定・拒否・拒絶を通じて到達する、という理解になりそうな気がする。

714. 『こゝろ』のKなどが典型ですが、まさに「いろけの始まりは知恵の終り」と考えて、性愛を否定ないし拒否することで知的な高みに達しようとするのが普通ではないか。しかし、これはプラトンとは違うやり方になる。プラトンは、「一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして美しい肉体から美しいかずかずの人間の営みへ…(後略)…」(211B)と語っています。性的な愛と、知への愛は、ひとつながりの連続した過程なのです。知への愛が性的な愛を否定するわけではありません。

715. もちろん、ソクラテスもプラトンも、欲望の野放図な肯定によってよく生きることができるとは言いません。よく生きるためには、人は自分が本当に欲していることが何なのかを知る必要がある。しかしその場合でも、よき生は自分自身の本当の欲求の上に築かれる、という原則は貫かれます。節制が必要なのは、節制を通じて得られるものこそ、自分が本当に欲しているものだからなのです。(詳しくは『ゴルギアス』466A~505Dにおけるソクラテスとポロスやカリクレスとの対話などを参照してください。)

716. 第二に、恋の道の最終到達点は、絶対的で、普遍的で、不生不滅にして唯一なる美そのものとして美のイデアを観照することでした。これは、単純化すれば、人間の切実な欲求は絶対を観ることだ、ということです。同じことですが、人間の切実な欲求は不死なる永遠の存在に触れることだ、ということです。

717. エロース(性愛)が不死性に結びつく一つのあり方は、子孫を産むことでした。性交なしに子孫はなく、生物個体が自己の死を乗り越える一つの方法は子孫を産むことなのだから、エロース(性愛の欲求)は不死性の欲求に通じているのだ、という理屈はわかります。しかし、この地上でそうやって世代を越えて次々と子孫が生れ続けることは、さしあたり血統が途切れないというだけのことで、絶対的で、普遍的で、不生不滅の存在に触れることとはだいぶ水準が違います。

718. ディオティマの恋の道の説明には、「言論を産む」という話が所々にあって、恋の道の途上で産み出されるのは子孫だけでなく、しばしば言論になっている。この「言論」は「logos, λόγος」の訳であり、ロゴスとは普通には「言語、言葉」ということです。言語と絶対の関係は、先に少し考えたことがありました(2の14:566-581)。それを手がかりにして、恋の道の途上で産み出される言論と絶対の結びつきを考えてみます。

719. 先に言語と絶対の関係を論じたとき述べたように、「キン」という語は、過去現在未来のすべての金(金であるものすべての集合)を表すことができ(2の14:574)、かつまた、それしか表しません。ある人が、黄金色だが金ではないもの(たとえば、真鍮の指輪)を指して「キン」と言ったとする。これは言葉の誤用であり、これによって語「キン」の使い方が変わる(つまり、真鍮も表すようになる)、ということは起こりません。語「キン」が表しているのは、金であるものすべての集合であって、その集合に入らないものは表さないのです。

720. 金であるものすべての集合は、金の定義によって作り出されると考えることができます。三角形すべての集合が、三角形の定義によって作り出されるのと同じです。だから、「キン」という語は、過去現在未来のすべての金(金であるものすべての集合)を表すといってもよいし、金の定義を表すといってもよい。この二つはほぼ同じことです。

721. さて、金の定義とは、もちろん、金とは何であるかを定めるものです。プラトン哲学の用語でいえば、これが金のイデアです。すると、語「キン」は金のイデアを表している(意味している、指し示している)。こういうことになります。イデアは、永遠にして不生不滅、それ自体で存立する絶対的存在ですから、言葉はこうして絶対を指し示すわけです。

722. 少し補足します。先には、語「キン」は、金であるものそれ自体に〝くっついて〟いるという説明をしました(2の14:575)。金であるものそれ自体とは、金の本質といってもよい。金の本質が、この世界の内の金である物体に内在していると考えれば、語「キン」はその内在的本質、つまり金のピュシス(自然本性)を表すことになる。これがアリストテレス的な考え方です(2の1:16~20)。これに対し、金の本質、即ち金であるものそれ自体は、この世界の外にイデアとして存在する、と考えれば、語「キン」は、金のイデアを表すことになる。これがプラトン的な考え方です(2の1:8, 9)。

723. いま、私たちはプラトンのことを考えているのだから、プラトン風の考え方を取りましょう。すると、言葉(言論、ロゴス λόγος)はイデアを表す、ということになります。言葉は、こうして、言葉の外にある不変にして永遠の実在(イデア)と結びつくわけです。

724. 以上のように考えると、エロースは言論を産み出すことにおいて不死性にかかわる、というプラトンの考えの筋道が一応飲み込めるものになるでしょう(ただし、プラトン自身が以上のような説明をしているわけではありません)。人が自分の切実な欲求(恋)に衝き動かされて言論を産み出すとき、それらの言論に現れる言葉たちは、永遠不変のイデアを表すことによって意味をもつ。エロース(恋)は、子孫だけでなく、言論を産み出すことによって、永遠性・不死性にかかわっているわけです。

725. 「絶対」という言葉を明治になるまで持たずに過ごしてきた日本語人としては、自分の性愛の自然な延長上に絶対との遭遇がある、というのは、かなり困惑させられる主張です。性愛が子孫繁栄をもたらし、その点で、この地上での永続性と結びつくのはよくわかる。けれども、エロース(性愛)が言論を産み出し、言論が絶対を指し示し、そのようにして、人はみずからの切実な欲求において絶対との接触を恋い求めるのだ、というのは、うーんと、ちょっとなに言ってるか分からない、というのが正直なところなんじゃないか。

726. プラトンは、しかし、「いろけの始まりは絶対との遭遇に終わる」と言っている。死すべき者たちの地上的な生から、不死なる天上的な生へ、垂直的に上昇する力がエロースに託されている。性愛は、ロゴス(言論、また理性)を介して、この世を超越する力となるというのです。

727. 昭和十七年(1942)、小林秀雄は、「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない」*と記しました。個々の美しいものすべてを規定する美のイデアなんてものは信じない、という宣言だと思われます。私たちの切実な関心は地上の個物に向い、天上の普遍に向わない、なぜなら、永遠不変のイデアなどというものはないのだから。こう小林秀雄が考えたかどうか、それはわかりませんが、おそらく、プラトンとは違う精神がここにあります。この世を超越して天上的な生へ垂直的に上昇する個の愛の力、というものを信じない精神。これを、私たちは受け継いでいるのかもしれません。

注*: 「當麻たえま」。小林秀雄「無常といふ事」『小林秀雄全集 第8巻』(新潮社1978)所収。

728. 次回は、アリストテレスのピリアー論を紹介します。

いいなと思ったら応援しよう!