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何度も読み返す本

皆さんは、何度も読み返す本はありますか。
私にも何冊か読み返す本がありますが、その中の一つが、江國香織さんの落下する夕方。
この本は1996年に出版された本なのだけど、私が初めて読んだのは今から四年くらい前。
私は元々文章を書くのは大好きなのに、読書が苦手でした。何故かと言うと、読んでる間に他のことばかり考えてしまうから、中々本に入り込めない。文章を読んでるのに頭の中がおしゃべりを始めてしまい、集中ができない。
大学は文学部で、文芸創作を専攻してたので、読書量が少ないと実力も上がらないと思い、大学生の頃から仕方なく読書を始めた。
大学を卒業してもその習慣は続けていて、ブックオフで100円で売っていたこの本をなんとなく手にとり、美しいタイトルに惹かれて買うことにした。(私はいつも適当に行き当たりばったりで本を買う)

そして、読み進めると、この話は、主人公の梨果という女性が長年付き合った彼(健吾)に振られるところから始まる。
健吾は他に好きな女ができたらしい。その健吾の心を奪った女の名前が、華子だった。
私の本名も華子なので、急に親近感を覚える。
華子は、子供のように自由で気楽で嫌味のない人で、みんな華子に夢中になる。この本に出てくる何人もの男達はみんな華子のことが好きだった。

ここからはネタバレになるので、読んでいない方はごめんなさい。ネタバレでもいい方だけ、どうぞ。

不思議なことに、華子はあらゆる男から好かれるのに、誰のことも愛さない。誰の手にも入らないのだ。
私も最初は、なんという小悪魔なやつだ〜、なんて思っていたのだけど、
全く手に入らない華子について、健吾と梨果がする次の会話の部分を読んで、当時の私は、鳥肌が立ち、震えた。
「恋愛っていうんじゃないことは、自分でももうわかってるんだ」
「恋愛じゃなかったらなんなの?」
「執着」

え、しゅ、しゅうちゃく?ドキリ。
そうなのだ、恋愛と執着は似ているようで、違うもの。
相手が手に入らないと追いたくなるのは、結局相手のことを愛してるのではなく、自分を愛してるのだろうね。自分から逃げていくのが悲しくて、自分が惨めで、そんな自分の気持ちが報われたらいいと思って、追う。それって相手を大切に想う恋愛とはわけが違うよね、ということが、この会話の部分を読んで、わかった。
当時24歳の私にとっては、恋愛と執着は違うというその概念が、新発見、衝撃的で堪らなかった。

そして、華子はよく「いい気な大人は叱られるけど、子供はいい気なものでいい」と言う。
華子は、大人としての責任を全うできない、自分勝手な子供のような人。本当に子供のような人なので、可愛らしく、嫌味もないし、人から好かれる。
大人が子供に戻りたいと思うように、みんな華子に憧れる。

でも、恋愛と執着は違うので、恋愛をするということは相手に対して責任を持つということ。相手を気にかけて、自分のことよりも大切に思うということ。華子はそれができない。
セックスができても、同棲ができても、それが列記とした付き合いにならないのは、彼女に人を愛する責任が持てないからなのだ。

それで、華子は結局自殺してしまうのよね。
いい気な大人のままで、現実社会を生きることは、きっととても辛くてできなかったのだろう。子供の責任能力のまま大人になることって、きっと誰にもできない。いつかは大人にならなきゃいけない。

私もずーっとわがままで、人を振り回してきたな、とよく反省する。
自分よりも相手を大切に想うとか、人に関心を持って気にかけるとか、そういうことがずっとあまりできない人だったように思う。
だから、この話が胸に刺さってよく思い出す、何度も読む。
人と恋愛するということは、相手を大切にするという責任が伴うこと。ふむ。

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