スイカのはなし
スイカのはなし
これほど日々のうぐいすの鳴き声に、敏感に生きた年もなかった。もうそういう年齢なんだな。初音を昨日のごとく聴いて、気がつけば夏の暑さも盛りにちかく、みな鳥の声など聞きもあえず、あたまから水に浸かっている。一昨日くらいまでは村雨がこれば洗濯物をしまい、やめば、また干す日々。それが晴れたらもう耐えられない暑さだ。動きたくないから、することと言えば夏の思い出に浸るくらい。なぜか記憶は汗びっしょりかいて糺(ただす)の森を友達と歩いている情景に運ぶ。道徳の弛んだ十九の青年らは境内の神聖な小川で水遊びをしている。
夏の思い出といえば、日焼けした写真に映るのは砂浜と時代を感じさせる女性のパーマネント。うしろに新居弁天の赤鳥居がみえる。母が子供の頃よく家族で電車にのって浜名湖の新居弁天の海水浴場まで行ったはなしをしている。今から六十年も前の話で。そこでよくスイカ割りをした。わたしが面白いなと思ったのはスイカを持って電車に乗っていたことだ。駅まで重いスイカを持って歩いて、電車にのって、また海水浴場まで歩く。あの頃の写真には大抵日焼けした笠智衆みたいな人が贅肉のない均整のとれた半裸をみせて写っている(それはわたしの固定観念だ)。そんな人、おそらくお父ちゃん(祖父)がスイカを運んだんだろうな。わたしはそんな光景を思い浮かべながら、昔の人たちの遊びへの甲斐性に感じ入る。それとスイカを持ったお父ちゃんと子供たちが電車に揺られて、歩いて海水浴場に向かう、その想像上の景色がなぜか無性に懐かしくもあり、風情を感じさせる。それほど強くもない日差しをわたしは今、眼裏に受けている。