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敢えて厳しい言葉で気づかせる。
人は、それぞれにプライドなるものを持っている。歳を重ねれば、そのプライドの層もバームクーヘンのように分厚くなってくる。
よって、外野席から厳しく指摘を行えば、素直な人ならば、指摘に対して真摯に受け止め、スルッと飲み込み、解決を図る。
ところが、プライドの層が入り乱れ、分厚い層になっている人は、それが邪魔をして飲み込むには至らず。だから、解決できないまま放置される。
実に簡単なことだが、素直になれるか否かが問題であり、どんなにその人なりのプライドの層が分厚くとも、真摯な心はその層を突き通す。
プライドの層が厚い人には、敢えて、厳しい言葉で気づかせる。間違ったことを指摘するのに遠慮は要らない。ダイレクトに指摘を行う方が、仮に嫌悪感を持たれようが、その人の為である。
それが人としての、特に、知人友人に対しての愛情表現であると考える。遠回しに遠慮気味に話をしても、真意は伝わらない。可能な限り早期に気づけば、改善、解決の余地は残される。
しかしながら、その愛情表現を逆手にとって、「要らぬ世話」で済ませる人間、竹輪耳にて飲み込めぬ人間も多々存在する。
その場合は、これ以上の愛情表現は不要となる。よって、改善されることも解決されることもなく、その人物は再び同様の過ちを繰り返す。
されど、人それぞれに性格も異なり、この荒療治が通用する人と、全く効果も出ない人がいるのは否めない。よって、後者に関しては、期待薄ではあるが、本人が先々痛い目に遭って初めて気づくのを待つしかなさそうだ。
以上、筆者なりの「気づき」へのアプローチに対して、異論反論があろうかと推察するが、ぬる湯に浸かりっぱなしの人には、この程度厳しく伝えねば、竹輪耳にも届かぬことになる。
<奇妙なご飯茶碗の持ち方>
蛇足ながら、厳しい指摘の後に、ある人物のリアクションを思い出したので、末筆ながら実例として記しておきたい。
あるテレビ局の新人記者の話であるが、ホテルレストランでご飯茶碗を左手で上からぶら下げて持った状態で食べていたのを、その上司を介して指摘したことがあった。
それ以来、その新人記者からの連絡は途切れた。勿論、その奇妙なご飯の食し方が治っているのかは確認できていないが、プライドとはその程度のものである。
![](https://assets.st-note.com/img/1716819923605-Oe1mCRwEXW.jpg?width=1200)
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、人間関係や個人の成長に関する深い洞察を提供しています。筆者は、プライドとそれに伴う障害について考察し、特に厳しい言葉での指摘が必要である場合について述べています。以下に、このエッセイに対する詳しい感想を述べます。
プライドと成長
筆者は、人間のプライドが成長や自己改善にどのように影響を与えるかを鋭く指摘しています。プライドが分厚くなると、外部からの指摘や助言を受け入れることが難しくなり、その結果として問題が放置される可能性があると述べています。これは多くの人々が経験する現象であり、自分の弱点を認めることがいかに重要であるかを強調しています。特に、素直に指摘を受け入れられるかどうかが、個人の成長に直結するという視点は非常に共感できるものです。
厳しい言葉の必要性
筆者は、特にプライドが厚い人には、敢えて厳しい言葉で気づかせることが重要であると主張しています。これは一見すると冷酷に見えるかもしれませんが、真の友人や知人に対する愛情表現であるという考え方が根底にあります。厳しい指摘がなければ、問題は解決されず、その人は同じ過ちを繰り返す可能性が高いという点で、筆者の見解には説得力があります。
効果の限界と対処法
しかし、筆者も認めているように、全ての人がこの方法に対して同じように反応するわけではありません。厳しい言葉が通じない人もおり、その場合は、本人が痛い目に遭って初めて気づくしかないという現実があります。この点において、筆者は現実的なアプローチを提案しており、すべての人に対して万能な解決策が存在しないことを理解しています。
実例の教訓
エッセイの最後に述べられた実例は、筆者の主張を具体的に示しています。新人記者の奇妙なご飯の持ち方に対する指摘が、結局はその記者との関係を断絶させてしまったというエピソードは、プライドの厚さとその影響を象徴的に表しています。この例からもわかるように、指摘がどのように受け取られるかは人それぞれであり、結果として望む効果が得られない場合もあることを示しています。
総括
このエッセイは、他者への指摘や助言の難しさ、そしてそれがどのように受け取られるかに関する洞察を提供しています。厳しい言葉が時には必要であり、それが真の愛情表現であるという考え方は、多くの人にとって考えさせられるものです。しかし、全ての人に同じアプローチが通じるわけではないという現実も認識しており、筆者のバランスの取れた視点が光ります。このエッセイは、人間関係や自己改善に関する深い洞察を提供しており、多くの読者にとって有益なものであると言えるでしょう。
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