静寂に包まれた朝
大晦日の早朝、今年最後のオフィスのゴミ出しを行なった。少々フライング気味の時間帯であったが、雨が降りそうなので(既に木々や地面は濡れている)、いつも車で運ぶところを、両手にゴミ袋をぶら下げ、長い階段を下りていった。
途中、階段の右手に、振興住宅ならではの小さな公園がある。街灯が1つポツンとその足元と周囲を照らし、木々に付着した無数の小さな水滴を僅かな光で照らしている。光の回り込みにて、暗がりでも木の枝や水滴がすこぶる立体的に映る。
ゴミ出しを完了し、再び、オフィスまでの長い階段を上らなければならない。四国の金比羅さんの階段のように長くはないけれども、暗がりなのでiPhoneのライトを付けて、一段一段を確かめながら上り詰めていく。
左手には先ほどの小さな公園が見える。何の変哲もない公園であるが、今年最後の日の早朝の姿が、やけにしっとりと見えて仕方がない。よって、暗がりでiPhoneを両手で握り、数枚の写真を撮ることにした。あまり長時間撮影していると変質者に思われるので、要注意。
雨の日は、傘を持参していない限り、一眼レフカメラを使用することはないので、iPhoneなどのスマホの手軽さは素晴らしいと思いながら、ほんの数秒の撮影にて、更に、階段を上っていく。
早朝の空気は、雨のせいもあり、ひんやりとして、深呼吸するとすこぶる美味しい空気である。午前六時すぎた頃だが、既に、幹線道路は自家用車やトラックが行き来している。ヘッドライトのイルミネーションが美しく、タイヤと道路が擦れる音や、マフラー音はやや遅れて聞こえてくる。光と音の速度の違いなのだろうと。
末筆ながら、つい最近のことだが、筆者が撮影した野鳥について賛美の言葉を頂いた。それを機に筆者noteに立ち寄るようになったとのこと。その方は愛犬を主人公としたnoteを書かれているが、このようにワンちゃん、猫ちゃん、そして花々、更には自然について心を寄せる人の心は温かいに違いない。重ねて、感謝の意を表したい。
▼ChatGPT-o1による感想
このエッセイは、年の瀬の慌ただしさの中にもひっそりとした静寂や、深呼吸したときの空気の「美味しさ」を感じ取れる、筆者ならではの“心のゆとり”が印象的です。大晦日という区切りの朝にゴミ出しという日常的な行為をしつつも、雨で濡れた木々や水滴、閑散とした小さな公園など、目に映る何気ない景色を「しっとり」と捉えているところに、筆者の優しい視点を感じます。
また、暗がりの中で公園を眺めたり、スマホで写真を撮ったりする描写からは、物理的には何の変哲もない風景が、筆者の内面では特別な輝きを帯びていることが伝わってきます。雨上がりならではの水滴が街灯に反射する光景や、ステップを一段ずつ確かめながら階段を上る行為には、静けさとともに新たな発見や余韻をもたらす力があるのだということを改めて思い起こさせます。
さらに、写真撮影のくだりには、カメラ好きならではの「変質者と思われないように要注意」というリアリティがこもっており、クスッと笑えるユーモアを感じさせる一方で、それでも「数秒だけ撮影してみよう」と思わせるほどの魅力が公園の風景にはあったのでしょう。スマホの手軽さを活かして心惹かれた一瞬を収めることで、そのときの静寂や湿度感を記録する行為そのものが、日常の尊さを再発見するきっかけになっているように思えます。
最後の野鳥の写真に対する賛美への言及からは、筆者と同じく自然や生き物を大切に思う人々とのつながりが生まれたことへの喜びが伝わります。実際に野鳥や愛犬など、違う被写体を介して世界を見つめ、共感し合えるのはとても素敵なことです。年の最後の日に、こうした小さなやり取りへ感謝を示し、心を通い合わせようとする筆者の姿勢は、読む者の気持ちまで温かくしてくれます。
総じて、何気ない日常の風景の中にこそ、新鮮な発見や潤いが潜んでいるということ、そしてそれらを楽しむ余白や感性をもつことの大切さを改めて教えてくれるエッセイだと感じました。静かな早朝に、わずかな光に照らされる公園を見つめる筆者の視線は、きっと読む人の心にも同じような穏やかさをもたらしてくれるでしょう。