郷に入っては郷に従え
インバウンドで日本を訪れる観光客が急増しているのは良いことだが、何故、受け皿となる日本人が一所懸命に英語で対応しようとしているのか。
オリンピックや世界大会の場合を除けば、観光で訪れるのは諸外国からの観光目的や遊び目的の人ばかり。日本の歴史や伝統、そして観光名所と食文化などに興味を持っている人たちが圧倒的に多いのであれば、日本語に挑戦されてはと思うばかり。
我々日本人が欧米へ足を運べば、世界共通語は英語だから英語は聞き入れるが、日本語は分からないと爪弾きされる。勿論、人並みに英語を話す筆者が海外へ行っても、フランスでは断固としてフランス語しか喋らないタクシードライバーもいる。英語など聞こうともしない。
「おもてなし」についても、何故、英語の接遇を中心として、看板には、韓国語や中国語の表記をしている。表記までは問題ないが、何故、母国語の日本語で対応しないのか首を傾げてしまうのである。
特に、英語圏から訪れる外国人へは、平身低頭に、にこやかに、最上の「おもてなし」をする日本人。しかし、同じ日本人が大都市部へ行って、どれだけ「おもてなし」を感じるかと言えば、かなりの地域差がある。
田舎に足を運べば、海外からきたというワンポイントの英語の先生として勤務していたり、駅前留学か何処かの塾では、大して学び深いとは思えない外国人が英会話を教えている。
特に後者の質を見ると、博学ではなく、とんでもなく薄学の人も多く存在しているようで、素行も良いとは言い難い。夜な夜な外国人だけのグループにて酒を飲み交わしているシーンを何度も見かけたことがあるが、話している内容を聞くと、尾籠なるものが多い。
ある日のこと、或る外国人男性と筆者とでカメラ談義が始まった。彼はCANON党であり、完全にNIKON党の筆者を小馬鹿にした物の言い方であった。日本の一眼レフの歴史も知らずして、自分のカメラ自慢である。
ところが、そのカメラを見ると、誰もがお散歩カメラで使うようなものであり、レンズも最初から付いている、何ちゃってカメラだ。一言、1999年にリリースされたNIKON D1のデジタル一眼レフカメラについて話をすると、彼の顔色は変わった。
しめしめと思い、超ワイドレンズから標準、そして望遠、中望遠、超望遠レンズなどの特性について語ると、先ほどまでの勢いが急に止んでしまったのである。今までの会話内容が、何とも、不知というものの恐ろしさでもあり、厚顔無恥さである。
日本へ塾の英語教師として派遣されているにも関わらず、深掘りをすることなく、自分の保有するカメラ自慢から始まるので、写真愛好家の一人としては面白くもない。勿論、CANON製のカメラを見下しているものではない。素晴らしいカメラを作る日本企業のトップクラスのメーカーして自慢するばかり。
そんなこんなで、カメラ談義は結構な時間、英語だけで進んでいったのだが、やはり、ここは日本。日本で稼いで帰るつもりであれば、日本語で対応せよと言いたくもなった。英語を喋るのが上級民族ではなく、英語圏であれば2歳児でも英語は喋る。その程度のものだ。
だったら、漢字、平仮名、片仮名を要する日本語を読み書きして、話してみよと言いたくもなる。世界でも難解な言語の一つであろうと考えるが、英語圏が優位であるとの考え方は、差別からくるものだ。フラットでフランクな付き合いをしたければ、互いに敬愛の念を持つのが前提ではなかろうか。
畢竟、過度なる「おもてなし」文化に傾注し、何でもかんでも、平身低頭に接する日本人の姿は見たくもない。常に毅然とした態度にて、この素晴らしい歴史と伝統を誇る日本人の一人として、もっと日本の素晴らしさを伝えたいものである。
最後に、日本人は「すみません」と謝罪する時に「I'm sorry.」と、如何にも非を認めたような表現を使いがちだが、そこは、「Excuse me.」で宜しいかと。特に、他国の人は、自分の非を認めると不都合だと思いがちなのか、滅多に「I'm sorry.」と謝罪することはないのだから。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイでは、インバウンド観光客に対する日本の対応方法、特に外国語(主に英語)を使う接客に対して批判的な視点が提示されています。著者は、日本が観光客に対して過度に柔軟であり、それが日本の文化や言語の自立性を損なっていると感じているようです。
エッセイの主なポイント:
言語の使用についての問題提起:
著者は、外国人観光客に対してなぜ日本語ではなく英語で接客するのかを問題視しています。特にフランスなど他国では母国語使用が普通であることを例に挙げ、日本も同様に日本語を尊重すべきだと主張しています。
「おもてなし」文化の過度な柔軟性:
日本の伝統的なもてなし文化が、外国人観光客に対して過度に謙虚であり、それが日本人の自尊心や文化的アイデンティティを損なう原因になっていると批判しています。
文化的自立と誇り:
日本人としての誇りを持ち、外国人にも日本語や日本文化を尊重する態度を求めるべきだと主張しています。言語だけでなく文化全般にわたる自立と尊厳を重視する姿勢が感じられます。
分析と感想:
言語と文化の独立性: エッセイは、グローバリゼーションが進む中で、日本がどのように自国の言語と文化を守るべきかという重要な問題を提起しています。これは他国でも同様の議論があり、文化的なアイデンティティと国際的な接客標準のバランスをどう取るかが常に問題になっています。
観光業における言語の役割: 言語は単なるコミュニケーションツールではなく、文化の伝達者でもあります。著者が言及するように、日本語を通じての接客が、より深い文化理解への入口となり得るのではないかという点は考慮に値します。
外国人観光客への対応の改善: 一方で、世界中から観光客を迎える以上、多言語対応が必要不可欠なのも事実です。どのようにしてバランスを取るかは、今後の日本の観光政策において重要な課題となるでしょう。
著者の主張は、日本がグローバルな視野を持ちながらも、文化的自立をどう保つかという大きなテーマに対する一つの回答を提供しています。このような意見は、日本だけでなく他の国々にも通じる普遍的な課題を示しており、多文化共生の未来について考えるきっかけを与えます。