『豹変』は、その人物の稚拙な思考回路図を投影する。
人間は、潜在意識の中に何か異物が飛び込んでくると、知らず知らずの内に挙動が変わる。心と体のバランスが崩れ、これまでの良き習慣や日常の行動を真っ黒に塗り潰してしまう。
『豹変』を眼前で直視ことは幾度かあるが、『豹変』する人間の受け止め方、考え方は、常に客観性を欠いており、突発的であり、その要因は全てに己にあることに気付いていない。
己が発した言葉で自分の首を絞め、その息苦しさから解放される方向性を求めて、最終的に『豹変』するに至ることもある。しかし、本人は『豹変』を第三者に責任転嫁してしまう。すこぶる身勝手なものである。
人と人の『ご縁』はお金で買えるものではない。長きに亘り、特別なる心地良さが素晴らしいリレーションシップを生み出し、相互に信頼関係を結ぶことで、新たな世界が広がって行く訳だ。
ところが『豹変』する人間は、これまでの『ご縁』を大鉈を大上段に構え、叩き割ってしまう。これは、自らの人間性を別物に摺り替え、折角培ってきた全ての宝物を失うことにもなりかねない。
『豹変』とは、元々良い意味として生まれた言葉である。それは、『君子(立派な人物)は、豹の毛が季節により生え替わり、すこぶる美しいことから、過ちがあれば即座に改める』という称賛の言葉であった。
しかし、現在では、『豹変』は悪い意味に例えられるようになり、悪い方向に態度を急変するを形容している。
『豹変』する人間は、自らの人間性のダメダメさを露呈するだけで、胸襟開き会話もできず、従来の信頼関係がハリボテであったことを曝け出す。『立派な人物』を形容していた『豹変』が真逆となれば、『立派な人物ではない』と言うことになってしまう。
常に腹を据えて、『ご縁』を大切にする人で、このような悪しき『豹変』の道を選ぶ人は皆無に等しい。それは、常に自然体にて、損得なしにて、相手の立場を考え、相手に敬愛の念を持って接しているからだ。
都合が悪くなり、即座に『豹変』を選ぶ人間は、稚拙極まりない。考えが甘く子供染みており、発言に責任を持たず、ただ、ダラダラと日々を送っているに過ぎない。ケジメのない、他力本願の情けない人間がその道をトボトボと歩き去る。
こんな人間には、逆立ちしてもなりたくはないと、自分の背中を見ながら、日々思うばかり。勿論、昔の『君子(立派な人物)』を表す、良い意味での『豹変』を選ぶが人として必要なことだと、自分の尻を叩く毎日である。
<『豹変』の一例>
最後に、悪い意味で『豹変』した一例を挙げたい。
食事処の店主であったが、或る日突然『豹変』したのである。原因はいくらでもあるが、一つは、お気に入りの女性スタッフを寵愛していたらしく、その女性の言いなりに店内を弄り回し、統一性のない、訳のわからぬ店内になってしまった。
心配してそれを指摘すると、「私は自分の遊び部屋みたいな感じの店が好きなんですよ!」と言い訳をする。トイレのシンクを変なデコで装飾してみたり、天井のエアコンに似非シーリングを取り付けたり、目を覆いたくなるような店内に変わってしまった。
その女性のナンセンスさを直接指摘した訳でもないが、それが気に入らなかったのだろうか。言うこと為すことが『日替わりランチ』となり、結局は十数年のリレーションシップを断絶するに至った。家族同然に可愛がっていたけれども、その『豹変』ぶりに、心が折れてしまった。
その『豹変』に至る1年ほど前から、妙な兆候があることに気づいていたものの、大の大人である訳で、そこまで足を踏み入れて苦言を呈しようとは思わなかった。しかし、危惧した通りに、その店主は精神的に病み、形振り構わず、坂をごろごろと落ちて行った。
悪い意味での『豹変』。これは、過去の自分自身を否定することになり、決して『進化』に結びつくことはなく、『退化』を助長するに過ぎない。人として、人格者となるには、突発的に『豹変』することで『逃げ』を選ぶものではない。笑顔も引き攣り、支離滅裂な論理展開となり、自分自身を見失ってしまうのだから。
▼珈琲アローの店主 八井巌さん
1964年から58年間、軸がブレない人格者。熊本の典型的な『もっこす』を貫く方として、多くのファンを持つ。筆者が敬愛する、『豹変』とは縁遠い方の一人である。
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