映画「サタデー・ナイト・フィーバー」感想
一言で、ジョン・トラボルタのディスコ楽曲とダンスの魅力が詰まった作品です。若者達のエネルギーはバカだけど凄まじく、ジョンのカリスマ性と、1970年代におけるNY格差・人種差別・性・暴力を見せつけられました。
評価「C」
※以降はネタバレを含みますので、未視聴の方は閲覧注意です。また、センシティブな内容を含みますので、不快になった方はブラウザバックをお願いします。
ニューヨークのブルックリンに住むイタリア系アメリカ人の青年トニー・マネロは、仕事も生活もパッとしない毎日を過ごしていました。しかし、土曜の夜だけは仲間とディスコに繰り出し、得意のダンスでみんなの注目を浴びています。
ある日、彼はひょんなことから年上の女性ステファニーと出会います。すっかり彼女のダンスのセンスに魅了された彼は、コンビを組んでダンスコンテスト優勝を目指そうとしますが…。
主な登場人物は以下の通りです。
・トニー・マネロ : 本作の主人公。ブルックリン住まい。背が高く、スタイルが良い上に、ダンスが上手いイケメンなので、とにかくモテます。しかし、仕事や生活はパッとせず、土曜日のディスコだけが楽しみでした。とあるキッカケでステファニーと出会い、ダンスコンテスト優勝を目指しますが…
・ステファニー : トニーの新しいダンスパートナーで、マンハッタンで働くキャリアウーマン。ダンスを通じてトニーとは距離を縮めるものの、決して「一線」は越えません。彼女は「上昇志向」の強い性格ですが、どこか寂しさを抱えています。
・アネット : トニーの幼友達で、前のダンスパートナー。トニーにパートナーを一方的に解消されてしまいます。諦めきれない彼女は、ずっと彼を待ちますが、相手にされず荒んでしまいます。
・ボビー・ダブルJ・ジョーイ : トニーの仲間の不良達で、いつもバカなことをしようと企んでいます。
・フランク・マネロ : トニーの兄で元神父。親の期待に応えてきて神父になりましたが、限界を感じて退職します。
本作は、ジョン・バダム監督制作の音楽映画で、ディスコ・サウンドを多用したダンスミュージック作品です。アメリカでは1977年に公開されるや否や大ヒットを記録し、新人だったジョン・トラボルタの出世作になりました。彼は、翌年の第35回ゴールデングローブ賞と、第50回アカデミー賞では主演男優賞にノミネートされました。
また、本作のポスターの「トラボルタ」の風貌や決めポーズ(右腕を上げて、右手の人差し指を立て、顔は正面を向きつつ、足は開いて正面から少し右を向く姿勢)は大変印象的で、よく真似されるのがわかります。
そして、本作のサウンドトラック「サタデー・ナイト・フィーバー」は驚異的な売上を記録し、なかでも作中で「ステイン・アライブ」などBillboard Hot 100 1位6曲を含む7曲を提供したイギリスのバンド「ビージーズ(Bee Gees)」は、その人気を不動のものにしました。
さらに、本作はブロードウェイなどでミュージカル化もされ、現在に至るまで、様々なメディアミックスを経ています。
ちなみにトニーが踊ったフロアは、そのクラブの閉店に伴いオークションにかけられています。
日本では翌年の1978年に公開され、配給収入は約20億円の大ヒットを記録しました。日本では、「ディスコ=ポジティブ・好景気の象徴」として受け取られ、ディスコで踊り、熱狂することを指す「フィーバーする」という和製英語が生まれました。また、パチンコでの大当たりのシステムでも「フィーバー」という言葉が使われるようになりました。その後の1980年半ばから1990年前半までの「バブル景気」の時代では、ディスコブームが起きました。
しかし、アメリカでは日本とは真逆の状況で、貿易赤字と財政赤字に悩まされていました。本作は、そういった希望のない生活から出られないブルックリンの若者たちの鬱屈とした物語なので、日本では「真逆」の受け取り方をされているのが興味深いです。
日本語吹き替え版キャストを調べたところ、ソフト版は三木眞一郎さん、テレビ朝日版は郷ひろみさんでした。郷ひろみさんがジョン・トラボルタというのは、何かわかります(笑)
尚、1983年にはシルベスター・スタローン監督で続編にあたる「ステイン・アライブ」が製作されました。
1. ディスコミュージックと、ジョン・トラボルタのダンスの表現はとても良い。
本作は、音楽映画なので、とにかくディスコミュージックとジョン・トラボルタのダンスには、とても力を入れています。
ディスコミュージックは、全18曲で、どの曲も印象的でした。冒頭の「ステイン・アライブ」は言わずもがなですが、クラシック音楽のディスコアレンジもありました。(ベートーヴェンの「運命」や、ムソルグスキーの「禿山の一夜」) どの曲も聴いているだけで、自然に体が動きそうでした。応援上映があれば、やってほしいくらいでした。映画館は、約8-9割座席が埋まっていました。観客層は、1970年代で若者を過ごした年代の方が多かったのかなと思います。本作、スラング表現や下ネタは多めでしたが、結構クスクス笑い声が聞こえました。
本作を観ていると、ジョン・トラボルタが若者の「カリスマ的存在」になった理由がわかります。とても格好いいので、彼の服装や髪型を真似る若者が続出したようです。今でも、You Tubeにダンス動画が上がるのがわかります。
彼が鏡の前に立ち、セットした髪を細い櫛でとかすシーンは、「ジョジョの奇妙な冒険 第4部 ダイヤモンドは砕けない」の主人公、東方仗助みたいでした。もしかして、作者の荒木飛呂彦先生がキャラクターデザインのモチーフにしたのかな?と思うくらい似ていました。
ちなみに、トニーの部屋には、若い頃のブルース・リーとアル・パチーノ、リンダ・カーターのポスターが貼ってありました。彼らも、1970年代にスターとなった方々で、多くの若者が憧れたのがわかります。
2. 不良青年達がバカでエネルギッシュでアグレッシブ。
本作に登場する若者達は、とにかくエネルギッシュですが、それが有り余る故にヤンチャでバカな存在です。(ステファニーを除く。) アメリカの若者を取り巻く、飲酒・喫煙・ヤク・セックス事情を赤裸々に描いています。
トニーや仲間の不良達は、クラブでダンスを競ったり、ストリップショーを眺めたり、暴走運転したり、プエルトリコ系アメリカ人の溜まり場に乗り込んでドンパチしたり、泥酔して橋の上で騒いだり、とにかく若さ故の過ちを沢山やらかします。
恐らく、ベラザノ・ナロウズ橋上の泥酔バカ騒ぎは、リフレイン的に挿入したのでしょう。調子に乗って橋によじ登ったボビー、1回目はブラフでしたが、2回目は本当に落ちて死んでしまいました。
3. ある意味、「レイシスト」作品とも言える。
本作は、人種や性的志向に対する差別意識・人工妊娠中絶の是非が色濃く描かれています。
主人公ら白人系アメリカ人による、プエルトリコ系アメリカ人やアフリカ系アメリカ人に対する差別意識(レイシズム)が強いです。
特に、ダンスコンテストで黒人カップルとプエルトリコ系カップルが踊ったときの周囲の「冷ややかな目」がキツかったです。
最終的に、トニーとステファニーは優勝するものの、実力ではプエルトリコ系カップルの方が上だと思っていたトニーは、「世間のそういう目(白人を優勝させたこと)」に違和感を覚え、1位をプエルトリコ系カップルに譲り、ディスコを飛び出してしまいます。
また、ハンバーガーショップでの同性愛に対する「侮蔑行為」は、とても下品で、この当時にLGBTが明確な「差別や偏見の目」に晒されていたことがわかる描写でした。恐らく「両刀使い」という言葉は、バイセクシャルの隠語でしょう。
こういった、ニューヨークにおける人種の坩堝・差別・性・暴力の描写は、「ウエスト・サイド・ストーリー」と重なります。
さらに、ボビーが彼女を妊娠させてしまい、「人工妊娠中絶」の是非をフランクに問う下りは、不快になりました。元神父のフランクは言葉を濁します。勿論、カトリックでは「不可」ですが、神父を辞めた以上、直接アドバイスすることは躊躇われたのでしょう。
正直、トニーもボビーも、程度の差はあれど、女性を「モノ」としか見ていなかったです。トニーは、ステファニーとの出会いで、徐々に変わっていったように見えましたが。
フランクが町を出た理由は、新しい生活を望んだからですが、一方で彼らに関わりたくなかったのかもしれません。不良達に「神父さん」と呼ばれてるのを嫌がっていたので。
4. 本作は「怒り」の物語である。
本作では、現実に対する様々な「怒り」が沸き起こり、そこで藻掻く人々の姿が鮮明に描かれます。その「怒り」の原因は、「親の支配」・「仕事」・「人間関係」・「恋人」・「夢と現実との折り合い」など多種多様です。
とりわけ主人公が感じた「怒り」の原因は、「親の支配」と「夢と現実との折り合い」でした。
トニーの両親は、今で言う「毒親」で、特に父のモラハラや子供に対する過度な期待や搾取は酷いものでした。
トニーは、両親の期待に応えて神父になったものの、退職して新天地へ旅立った兄フランクを見て、自分も家を出て、マンハッタンに行くことを望みます。そのために、ダンスで一番になろうと日々努力しますが、中々そのチャンスに恵まれません。マンハッタンに行きたいという「夢」ばかりが膨らむのに、自分はそこへ行けない「現実の厳しさ」、何処かで折り合いをつけないと思いながらも直ぐに出来ない「もどかしさ」によって、トニーは心に「怒り」を溜めるようになるのです。
5. 本作は「橋を越える」物語でもある。
そして、本作は「橋を越える」物語でもあります。 マンハッタンとブルックリンの間には、両地域を隔てるベラザノ・ナロウズ橋が架かっています。華やかで都会的なマンハッタンと、労働者の多いブルックリンの対比は、ニューヨークでの格差社会を表しています。ブルックリンの住民にとっては、マンハッタンは「成功」の象徴でした。
同じ「白人系アメリカ人」でも、ヨーロッパからアメリカ大陸にまずやってきた英国系やドイツ系はプロテスタントだったのに対して、あとからやってきたイタリア系やアイルランド系はカトリック教徒でした。(トニーの家族は後者でした。)
このため彼らは先住者から「ヨソ者」として扱われたのです。そのため彼らはワーキングクラスに押し込められ、ブルックリンに住まざるをえなかったのです。
そのため、トニーは自分の置かれた環境に不満を持ち、そこから抜け出そうと藻掻くのです。作中、彼は数回橋に向かいます。橋に手をかざしてマンハッタンの生活を夢見たとき、橋の上で仲間とバカ騒ぎしたとき、ベンチに腰掛けてステファニーと橋を見つめたとき、ステファニーの引っ越しに付き合ったとき、地下鉄でステファニーの家まで押しかけたとき、彼は徐々に橋に近づき、そして最後は「橋を越えた」のです。
正直、表現や展開は微妙な点が多く、未回収のエピソードも結構あります。そのため、本作を「今一つ」と思った方がいらっしゃるのもわかります。
表現や展開については、本作は不良達の物語といえど、荒々しい暴力描写は、かなり不快でした。また、アネットは結局救われず、気の毒でした。
また、未回収のエピソードとしては、「残された不良2人(ダブルJ・ジョーイ)はどうなったのか?」や「トニーはマンハッタンに出てどう生活するの?」などがあり、疑問は尽きません。
昔の映画を私達が観たとき、必ずしも「面白い」と感じない場合があります。それは、作中における「価値観」や「メッセージ」が、現代を生きる私達のものとは「合わない」ことがあるからです。
しかし、その当時に「何故人気を博したのか」や、「どんな影響を与えたのか」を考えていくのも、興味深いです。実際、後世に残る作品は、何かしら「強い」表現やメッセージを持つからです。
最後に、かつて放送されていたNHKEテレの番組「ハッチポッチステーション」でグッチ裕三さんがモノマネした「ジョン・トラボタル」、とても好きです(笑) 滅茶苦茶面白かったのを覚えています。
出典:
・「サタデー・ナイト・フィーバー」公式サイトhttps://nightfever-and-flash.jp/
・「サタデー・ナイト・フィーバー」(映画) Wikipediaページhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BF%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
・「サタデー・ナイト・フィーバー」(ミュージカル) Wikipediaページhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BF%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC_(%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB)
・ジョン・トラボルタ 受賞歴https://eiga.com/person/41311/award/
・高層ビル街とサタデー・ナイト・フィーバーhttps://k-okabe.xyz/2017/09/06/saturday-night-feever/
・“現実はアートを模倣する”『サタデー・ナイト・フィーバー』の意外な真相と虚構 by 長谷川町蔵https://www.udiscovermusic.jp/columns/life-imitates-art-saturday-night-fever?amp=1
・「ジョン・トラボタル」による「クラリネットをこわしちゃった」
https://youtu.be/eZHWsV-CylA