なんで、も成長する
「なんで」は子どもの専売特許である。
なんで、なんで、なんで。なんでもなんでと聞く。こっちがうんざりするほどなんでばかり言う。知りたがりは悪いことじゃないがときには聞き流してくれないかとおもうこともある。まったく子どもはなんで君となんでちゃんである。
子どもに人気のおさるのジョージはお猿さんだが、実は猿の皮をかぶった人間の子どもである。実際こんな風に書いてある。「おさるは言われたことをすぐ忘れます」「ただひとつ困ったことがありました。それはとても知りたがり屋だったことです」そしてこの本のタイトルは言うまでもなく「ひとまねこざる」だ。大人の視点でみた子どもが猿に擬猿化して描いている。だから子どもたちから大人気なのである。だってジョージは自分たちの代弁者なのだから。
さて「なんで」であるが、これが成長とともに進化することがわかった。二歳くらいから始まるなんでちゃんはとにかく人の言ったことにひたすら反応してなんでなんで言う。これが五歳くらいまで続く。酷い時は返事の全てがなんでになることがある。ぼくなどはあんまり面倒くさいときは「なんで」を「そうだね」に脳内変換して「なんで」と言われたら「うん」と答えることもあるくらいだ。
もっとも「うん」なんて返事をして聞き流してくれるケースは稀で、「うんじゃわかんないっ。なんでって言ってるでしょ!」とお叱りを受けることもある。特に娘ではこの傾向が顕著だ。
さて、「なんで」が進化したのは息子が小学校に上がってからである。「家政婦ってなに?」「今月ってなに?」と突然なんの脈絡もなく聞いてくるようになった。なんで一辺倒が言葉を添えてその意味を聞いてくるのである。おおレボリューション。ぼくは密かに感動した。相変わらずなんで君には変わりないが、その有り様は根底から変化しているのである。素晴らしい。
ところで「今月ってなに?」と聞かれてうまく答えることができるだろうか。ぼくは言葉に詰まった。そこで、「今何月?」と聞いてみた。
「なながつ」
「そう、正解。まあ、普通はしちがつっていうんだ。で、その今なら七月が今月ってこと」
息子は全然理解しているように見えない。
「来月、つまり八月になったら八月が今月になる」
と言ってからぼくの説明がさらなる混乱を生んでいるのが手にとるようにわかった。
「まあいいや。とにかく今の月だから、七月は今月だな」
たぶん、わかってもらえなかったと思う。
どうしてわからないのかわからないでもない。つまり「今」は今この瞬間を示す言葉という認識がある。「今すぐ!」を理解しているのでそれは確かだ。ところが「今月」では今がある程度のスパンを持ってしまう。そして瞬間と期間は相反する。ピンとこないのも無理はない。
こうした説明はまさに今すぐ理解させようとしても無理な場合のほうが多い。うやむやでもとりあえず棚上げしておいて、また時が来たら棚卸しをすればいいのだ。そして大抵の場合、棚卸しは自分でやっていることのほうが多い。小学一年生にとって、疑問は湧き水のように溢れ出てとどめがない。しかしそれらを理解するだけのベースがない。知識も経験も足りないのである。
疑問が本当の湧き水と違うのは溢れてなくなってしまうことがないという点にある。疑問は興味である。知りたいと思う気持ちは脳内にどんどんストアされていく。そして何かの刺激が点と点を結んで線を作る。そんなふうなのだと思う。学校教育の問題はここにある。何の疑問を抱かないうちから詰め込もうとする。興味がないから頭に留めておくことができない。まさに湧き水と同じに川となって流れてしまうわけだ。まず最初に「なんで」を産まなければその先が続かない。そして「なんで」の出芽は個人差があるから学校のような集団で行うのは極めて難しいだろう。となれば親であるぼくがやるしかない。
今の所息子のなんでの拠り所は本や普段の会話によっている。授業でやったことでなんでと聞かれたことは一度もない。すべては退屈なものであり、なかったことになっているようだ。もっとも「お父さん、1+1はどうして2なの?」と聞かれたら言葉に窮してしまうのであるが。
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