先に手を洗ってはいけない
18時過ぎ、娘と帰宅する。ぼくは間髪入れずに夕飯の準備の残りに着手したいのであるが、娘がそうさせてくれない。最近は日が長いから帰宅すると玄関から入らずに庭に回ってまだ早すぎるワイルドストロベリーをつまみ食いしてキッチンの脇から上がってくる。
「靴かたしなさいよ」とぼくが言う。当然である。
「お父さんかたして」
「なんでだよ。自分で脱いだんだから自分でかたしなよ」
「お父さんかたしてッ!」
娘の語気が強まる。だからといってここで折れては親の沽券に関わる。
「じぶ…」
「お父さんかたしてっっっ!!!」
ぼくは渋々ひざまずいて靴を拾う。
「わたしが一個持つ」
そういって娘は靴を片方だけ持った。ぼくは片足分を持って手を繋いで玄関へ行き靴を並べる。
「だっこして」
「え、なんで?」
「だっこして」
「重いからやだ」
「だっこして!」
ぼくは渋々ひざまずく。娘がぼくによじ登る。ぼくは娘をだっこして洗面所へ連れて行く。
「お父さんまさか先に手を洗ってないよね?」
「え、あら…ってないよ?」
ここで洗ったなどと言ったら大変だ。なぜ自分をおいて先に洗うのかと号泣必至だからである。なんでかわからないが先に手を洗ってはいけないらしい。
「おとうさん洗って」
娘は当然のごとく手を伸ばした。
「え、なんでよ。自分で洗いなよ」
「おとうさん洗ってっ!」
「だってもう自分で洗えるでしょ?保育園では自分で洗っているんでしょ?」
すると娘は口をへの字に曲げて大声をあげて泣き出す。
「おとうさん、4歳のときまではやさしくなんでもいいよって言ってくれたのにそんなにきびしくしないでよ〜〜」
「4歳のときのほうがなんでも自分でやりたがってたよ」
「洗ってっ!」
ぼくは渋々水を出してやる。
「そうじゃなくてちゃんとやって!お父さんの手で洗うの!」
ぼくは深い溜息とともに自分の手を濡らしてハンドソープを取り娘の手で泡立てて洗ってやる。白い泡がみるみるうちに茶色くなっていく。
「ほらね、泡が茶色くなったでしょ。だから手を洗う前にいろいろ触らないでほしいんだよなあ」とぼくが言うと娘はぼくの足を思い切り踏んだ。しかしぼくはやりかえせない。なんだか知らないがそういう決まりになっているからだ。
手の泡を水で流してやりタオルの両端をそれぞれがつかんで「一緒に」手を拭く。まるで一本のポッキーを両端から同時に食べる恋人たちである。ポッキーはいいがタオルは拭きづらい。だから先に拭いていいよと言うと一緒にを強調して許してくれない。なにもかも娘の思うがままである。つまりそれをわがままと呼ぶ。
大体ぼくのほうが手際がいいから先に拭き終わるが、当然娘が終わるまで待っていなければいけない。そして娘は拭き終わったタオルを「はい」とぼくに渡してさっさと行ってしまう。ひとまず満足したという合図だ。
さて、これまでの一連の動作を全部無視するとどうなるか。もはやご想像に難くなく大泣き大暴れDV四重奏が待っている。どちらが面倒くさいかと言えば、どちらも面倒くさい。手洗いがスムーズに済めばいいが、大抵はもたもたぐずぐず寄り道に寄り道を重ねる。洗面所まで数歩の距離が20キロのヒルクライムに変わる。娘はぼくの手を煩わずことならどんな苦労も厭わないのだ。
こうして時間が押すと夕飯が遅くなりお風呂が遅くなり最終的には寝る前の本読みができなくなるよと口をすっぱくして言っているのだが、なにしろ相手は「今だけ」を生きているので通用したことがない。娘ちゃんは3歳くらいまで手のかからない子だったので、その分を今取り返しているのだろう。
わがままが言えるということは、そこが自分にとっての安全地帯であると認識しているからである。そしてこの安全地帯がないと外へ冒険していくことができにくいと言われている。失敗しても戻れる場所がないと失敗ができないのだ。これをアタッチメント理論というらしいがまったくその通りだと思ってお父さん日々の仕打ちに耐えるのです。
この記事が参加している募集
もしよろしければサポートをお願いいたします!サポート費は今後の活動費として役立てたいと思います。