「先のばしぐせ」は個人の問題ではなく時間側の問題であるという新説
自分は先のばしぐせがえぐいということでよく自分を責めたり落ち込んだりしている。
考えてみれば、何かを計画的にやり遂げたことがほとんどない。というか「計画性」という概念を身体が理解していない。一つの事象がどれくらいの重さを持っていて、それが身体に乗ったときに自分がどう反応するのかというそれだけな気がする。
まあそれでも自分という人間は、自分でも嫌になるほど硬直的に真面目なもので、今日も自分の「先のばしぐせ」というものに辟易しながら身体の中に重い石を作り出してていた。
しかしながら、最近よく聞く「先のばしぐせ」という言葉は、その響きが我々に誤解を与えているだけなのではないか?
別にわたしが事象を先に先にと送っているわけではない。感覚としては、一つの事象について時間がスキップして過ぎていってしまうという感じなのだ。わたしは別に部屋のはじでジッとしているだけだ。つまり、これは「個人」ではなく「時間側」の問題なのではないか?
そもそもこの雄大で歴史ある「時間」とちっぽけな「個人」が戦おうとするほうが間違っている。つまり、自分の意志でどうにかなると考えること自体が傲慢なのではないか?
そして、時間が一定の速度で歩いているだけで偉そうにしないでほしい。そんな時間との関係性がはじめから存在している人たちに私たちが責められるような筋合いはない。
メールが降り積もるのだって、一通当たりの降雪量のちがいなのだ。受信数とかではなく、なんというかそもそも気候区分が異なる。電話に出られないしメールにもなかなか返信できないけれど、それだって向こう側の問題なんだから、勝手に自分を責めるのはなんというか見当はずれだろう。