![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/10593915/rectangle_large_type_2_e3a2d08dde851bce42fabfcacb030723.png?width=1200)
「ふかいことをおもしろく」と、自分の物語のための勉強方法について
1980年代は日本でも、ミニシアターや小演劇のブームが起き、文化的に活気がある時期だった。野田秀樹がまだ駒場小劇場で活躍していた時期である。
昭和の時代を代表する劇作家のひとりであり、小説家でもあった井上ひさしが、劇団こまつ座を立ち上げたのも、1983年のことだった。以前イギリス映画(イーリング・コメディ)について書いていて、かれの小説の代表作のひとつ『吉里吉里人』(1981)を、読みなおしていたことがある。東北の村が日本に対して独立宣言するユーモア小説。こういうのはイギリス的精神に近い。ブレグジットには、その精神の名残のパロディのようなところがあるのだろう。正当に継承しているというよりは、パロディでしかないと思うのだが。
井上ひさしは、日本人の特に男性がみな、そこら中でタバコを吸いまくっている時代の、芸術家だった。かれ自身1日40本吸う愛煙家で、そのため肺がんになったが、それでも75歳まで生きたのだから、その人生の濃すぎる中身を考えれば、十分大往生だっただろう。
井上ひさしは、1949年にラ・サール・ホームに入った。父親はかれが5歳のときに死亡し、母親は事業に失敗して、カトリックの養護施設に入れられたのだ。
出身地では神童と呼ばれ、次に暮らしたところでは秀才と呼ばれ、仙台の中学校では上から二番の成績だったという井上は、高校(仙台一高)に入ると、どんなに頑張っても真ん中から上に行けなくなった。それで、ちょっとやそっと勉強しても無駄かもしれないと思ったかれは、自分の好きな本を読んで映画を見よう、と決めた。
担任の先生に、読書と映画に時間を費やしたいので、午後の授業には出られません、と相談すると、感想とか半券とか、証拠を出せば認めてやる、と言われた。それでかれはありとあらゆる映画を見倒し、気に入った作品は何回も見て、良いところをメモしたり、自分なりのシナリオを作ったりしたという。
たぶん今の学校では考えられないような、太っ腹な話である。かれにとってはこの教育が、物書きとしての滋養になったことは、想像にかたくない。その後孤児院の神父の紹介で上智の独文に入るが合わなくてやめ、医学部を受験するが失敗し、孤児院で勉強していたフランス語をいかして、上智の仏文に入りなおす。
フランス座文芸部員募集という張り紙をみて、浅草のフランス座に入りびたるようになった。フランスのモンマルトルの、ムーラン・ルージュやフォーリー・ベルジェール(キャバレー)の、日本版といったところ。
波乱万丈というような言葉くらいではまったく説明できていることにもならないかれの人生そのものが、創作のネタの宝庫だった。しかしかれは加えてさらに数多の映画を見たおし、本は1日30冊読んでいた。もちろん全部のページに目を通すわけではなく、目次を読み、結論を読んで、あたりをつける。一読して心に残った本は、表紙の裏に索引をつくって、ダイジェストをつくってしまう。重要な本はそうやって、自分流にじっくりと向き合いながら、何度も繰り返し読むのである。
本から得たものをいったん身体にいれ、いろいろ試行することが、かれの知識の元になり、書くということにつながっていく。身体にどんどん入れる情報がいくつか集まって、知識になり、その知識を集めて、今度は知恵をつくっていく。
まさに圧倒的なインプット量とアウトプット量の、際限ない積みかさねと、繰りかえし。人生が芸術になり、芸術が人生になる、壮絶な生きざま。
こうやって、井上ひさしは、自分に絶えず栄養を与えつづけながら、自分の物語を更新し、創作しつづけていった。一般人にはもちろん及びはつかないが、かれの映画の見方、本の読み方、それを自分の知識そして知恵と化し、そこからアウトプットするというきわめて真っ当なスタイルは、勉強とはどういうことかということを、改めて教えてくれている。
「難しいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」というかれのモットーを、及ばずながらわたしも、心がけている。
#井上ひさし #1980年代 #勉強 #読書 #映画 #ふかいことをおもしろく #田中ちはる