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エッセイ 本は現れる。

「本との出会いは一期一会」と、どこで誰から聞いたのかはもう思い出せない。
それでも、書店に足を踏み入れるたび、この言葉がどこからともなく湧き出てくる。本棚の間を縫うように歩く私に、チョロチョロと付いてきては、時折足に絡みつくのだ。そうなるともはや、何気なく手に取った一冊であっても、再び棚へ戻すことなど叶わない。どんなに財布の中身が心もとなくても。だって、もう二度と会えないかもしれないから。題名や作者名さえ、忘却の彼方へ消え去ってしまうかもしれないから。本が好き、本屋さんが好きという人ならば、この感覚はきっと共有できると信じている。

一方で、どうしても出会えない本…というのもまた、存在する。
品薄の超人気作でも伝説的絶版でも無い限りは、ネットで探せば一週間以内には、都会の空気と共に自宅に届くだろう。新品だろうと古本だろうと。書店での取り寄せも同義だ。すなわち、実力行使で出会いを演出し、確実に手に入れる…ということ。言い方はアレだが、もちろん自室の本棚にはそうして買い集めてきた本が何十冊とひしめいている。
でも、そういう形では手に入れたくない…目の前に〈現れる〉のをただ待ち続けたい本が、私には確かに有るのだ。

例えば、運命的な何かを感じた本。
不思議なご縁で出会った人や、尊敬する人、大切な人から勧められた本。
自分が探し求めてきた眩い言葉が、題名や帯にサラリと書いてあった本。
「読みたい」よりももはや「出会いたい」という欲求が正しいような…。
「お願い、どうか私の前に現れて!」
とにかくそんな本たちなのだ。

悲しいかな、私が生まれ育った田舎町には今、書店が一つしかない。
高速道路と下道で二十分程車を走らせた隣町にも、私が知る限りでは一つ。
子どもの頃は数軒あったのだが、当時は欲しい本が発売日に入荷して来ないのは当たり前。中学生になって多様なジャンルを読み漁るようになると、著者名や題名を書いた拙いメモを握って自転車を走らせ、店主のおじさんに「またコイツ?」って思われていやしないかと顔を熱くしながらも、なんとか取り寄せて貰うことが常だった。
幾分栄えている地域へ家族旅行へ出かけた時には、決まって「本屋さんに行きたい」とねだった。時には書店をハシゴしたこともあった。図書館にも置いていない海外児童文学。当時その道のカリスマだった作者の最新小説。友達から借りてハマったライトノベル。なぜか二巻だけ手に入らなかった少女マンガ。憧れの作者の筆遣いまで見えてくる画集。難解ながらちょっと背伸びしてみたかったハードカバーの詩集。お年玉をつぎ込んで、年に一〜二度あるかないか、両手いっぱいのまとめ買いだった。

本にまつわる思い出をもう一つ。
修学旅行で東京や関西を訪れた際も、信じられない大きさの本屋に目眩を覚えつつ、田舎では滅多にお目にかかれない数冊を連れ帰った。もちろんサブカル好きの同級生たちも考えることは同じ。あの本屋さんは確か京都の新京極。MOVIXの近くだったように思う。小説やマンガを両手いっぱいに高く積み上げた同級生と売り場で鉢合わせ、上には上が居ることを知った。目が合ってお互い会釈するようにすれ違ったが、その子が浮かべていた、恥じらいと全能感に満ちたはにかみ。ああ、これが、本と〈出会った〉時の顔なのだ。そう気付いたのは大人になってだいぶ経ってからのこと。書店に行くと今でも時々思い出す。私も今、あの子と同じ表情をしているのかも…と、咳払いをして前髪を直してみたりするのだった。
結局、段ボール一箱分の本を、滞在先のホテルから自宅へ発送していたあの子。彼氏とかプリクラとかスカート丈に忙しそうだったいわゆる一軍の女子たちは、そんな我々を見て「こんなとこまできて本買うとか信じらんない」と嘲笑していたが、極めて些細なことだった。心は既に、各々が旅の中で求め出会った本の世界へと旅立っていたのだから。

こうして振り返ってみると、ぼやけていた世界にピントが合っていくような心地だ。幼い頃、初めて眼科でメガネを作った時の感覚に近い。無数のレンズをカチャカチャと入れ替えて、最適な視界を模索するアレだ。

…もしかしたら私は「欲しい本は、簡単には手に入らない」「本当に必要な本だからこそ、簡単に手に入ってはならない」という思いが、人より強いのかもしれない。逆を返せばそれは「簡単に手に入ってしまった本は、まぁそういう本」ということにもなりかねないが、必ずしもそうではないしニホンゴブンショウムズカシイネ。だが改めて考えてみると確かに、アッサリ読めてしまったゆえ感想もアッサリだったり、どうにも読み進まずに数年経っていたり、酷いものは見栄っ張りなインテリアになっていたり…。そういう本に限って、簡単に手に入った物がほとんどなのだから、いよいよ耳が痛い。
あるいは、簡単に手に入ったゆえの扱いや愛着の問題か…。
少なくとも私の人生においてはかなり有力な説になりそうだ。

「読みたい」よりも「出会いたい」本たち。
その中でもとりわけ特別に感じた本に、私は更にもう一つのルールを課す。
それは「地元の書店で出会いたい」だ。もちろん売り上げに貢献し存続を願う思いも少なからずある。だが、それ以上に、私にとって特別である〈地元の書店〉という場所で発生した、閉鎖的で限定的で、極めて運命的な巡り合わせとその縁を、人生における一つの指標としたいからだ。

以下、舞台脚本のような手に馴染むタッチで、このエッセイの結びを綴りたいと思う。

「時は来た!」
足に馴染む書店。
見慣れた本棚と本棚の一角で、一際光り輝く背表紙を私は目にする。
見間違いではあるまいな。はやる気持ちを抑えて、極めて冷静に、疑い深く。
私は一歩一歩その本へと近づいていく。
「時は来た!」
間違いない。
現れた。
ついに、私の眼前に姿を現した。
何か月と探し続けたあの本だ。特別な出会いを待ち望んでいたあの本。
この店で、この棚で出会いたかった、あの本。
「時は来た!」
そう。時は来たのだ。
我が人生はついに、この本を読むという局面を迎える。
その境地へと、そのフェーズへと至った。
来るべくして、巡るべくして、時期は、機会はやって来たのだ。
「時は来た!」
ああ、これこそ真の一期一会。
私がこの本を読むのは、今日。
今こそ、私はこの本を読むべきなのだ。
「時は来た!」
永らく腹の底で飼い慣らしてきたはずの、やっかいで正確な本の虫。
ヤツは今、この腹を引き裂き生まれ出ようと、ここぞとばかりに暴れ狂っている。聞こえるか、聞こえているか、その声が。
「時は来た!」
肩が、二の腕が、肘が、本へ向かって伸びていく。
天井まで聳え立つ本棚。上から三段目。右から十五冊目、左から二十七冊目。

… と ど か な い ?

届かない。そんな、嘘だ。まだだ、まだやれる。
伸びる。伸びろ足、伸びろ手の平。
親指人差し指中指薬指小指。中指。そう。中指だ。
伸びろ、伸びろ、伸びろ伸びろ、伸びろ、中指。
ああ、今日まで伸ばし磨いた爪。
ああ、塗ったばかりのネイル。
この爪は、この指先は、その背表紙を決して逃さない。

「「時は来た…!」」

終わり

(2023年1月23日公開/2024年4月29日加筆)


ここまでお読みくださりありがとうございます。
ちょうど今日、1月23日は誕生日でした。本を通して思い出を振り返ってみると、もう○○年前の出来事だったりして、驚きです。だってこんなにも瑞々しく匂いや感覚まで手に取るように思い出せるのに。
随分遠くまで来てしまいました。
でも、いつだって今日が一番若いのです。
これからも私らしく、チャレンジと経験を重ね続けていきたいです。

最近、短歌がネタ帳のようになってきました。
エッセイに広げる前の短歌を、せっかくなのでここにも残しておきます。

「時は来た」探し続けた背表紙を今日捕まえるためのジェルネイル
2024/1/18 短歌日記

たておきちはる

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