![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162861714/rectangle_large_type_2_772d42e96d6920ddea6c8305b71c2785.png?width=1200)
【ちょっと悩める女性へ】臨床死生学を修めて学んだこと・私の死生観
Dear ちょっと悩める女性のあなた
TGIF!Chigyです。
金曜日は「カロリーゼロの日」として、ランチとコンビニスイーツのカロリーはゼロリセットとしています。謎ルールですw
さて今日は、とある方と死生観のお話になりまして、ご質問いただいたことについて共有してみたいと思います。
臨床死生学を修めました
私が高校生3年生の2学期始めに父親が急逝して以来、死生のことをよく考えるようになりました。
そして、愛する姉をうつ病に伴う自死で喪って以来、より強く生きること、死ぬことについて考えるようになりました。
そこで、心理学を学ぼうと思い立ち、社会人大学生として通信教育課程へと進み、緩和医療学・臨床死生学のゼミに在籍して学部を卒業しました。
ゼミの先輩とオーストラリアでの研修に参加したことがきっかけで、なぜかそのまま大学院へと進み、数年前に起業準備のために博士後期課程を退学しました。
修論は自死遺族についての質的調査を行い、修士課程(人間科学)を修了しました。
加えて、ちょうどゼミの学友がグリーフ(死別後悲嘆)ケアの自助グループをやっていて、今も自死遺族の会のファシリテーターを経験させてもらっています。
というわけで、これまで臨床死生のことについて、よく考えてきました。
いま、デジタルメンタルヘルスケアプログラムを開発しているのも、上述のような経緯と強い動機があったからと言えます。
どう生きるか
今日お話した方に、「臨床死生学を修めて何を学んだか?」という主旨のことを聞かれました。
「どう生きるか?」「どう生きているか?」を問われている気がしました。
私は、「いま、この瞬間を生きる」というようなお応えをしました。
メンタル不調に陥るのって、大抵が過去か未来のことが優位になっていることが多いと思います。
たとえば、「あの時あんなことをしなきゃよかった」「あんなことを言わなければよかったのに」「あの時こうしていればよかったのに」・・・と、過去に囚われすぎるとうつ傾向になってしまうし、
「もし●●になったらどうしよう」「こんなことが起きるかもしれない」「失敗するかもしれない」「またダメかもしれない」・・・と未だ起きてもいない未来のことに囚われすぎると、(予期)不安傾向になってしまう。
当たり前の話ですが、過去も未来も「いま、この瞬間」ではないし、実は目の前の現実ではない過去のことばかり反芻していたり、勝手に未来を妄想していたりするものです。
よって、とどのつまりは
「いま、この瞬間」を生きるしかない。
「いま、この瞬間」を生きていれば十分。
私はそんな風に捉えています。
私の死生観
家族の急逝、しかも一人は自死という人生最大の悲しみと痛みを経験して、共に絶望の日を生き延びてきた最愛の母親も看取って、臨床死生学を修めてきた今の私の死生観は、
私もいずれ必ず死にゆくし、実はいつ死んでしまうか分からない、それは明日かもしれない。
であれば、今日という日を精一杯生き切ろう。
永遠に眠りにつくその日まで、寿命が尽きるまでは思いきり生きてみよう。
それが先に逝った愛する家族の願いでもあるだろうし、きっとそんな私の生き方を喜んでいつも傍で見守ってくれているだろう。
という感じです。
綺麗ごとに聞こえるかもしれませんが、死生について考え続けてきて、たどり着いた私なりの答えなのかもしれません。
生きていると日々トラブルや嫌なことも起こるし、ましてやスタートアップを創業してからは、びっくりするぐらいハードシングスばかりです。
でも、目覚めた時と一日の終わりに思います。
「今日も私は生きている」って。
もうそれだけで十分なんじゃないでしょうか。
いま自分がどう生きるかを悩んでいる女性も沢山いらっしゃると思います。
結局答えはご自分自身で見つけるしかないと思いますが、もし何かの参考になれば幸いです。
Regards, Chigy