神の視点(内藤礼「精霊」他)
金沢21世紀美術館で開催されていた内藤礼「うつしあう創造」展に行ってきた。特に印象に残った作品について感想を以下記す(特段断りなき限り写真は筆者撮影)。
1 精霊
四方を硝子で囲まれた中庭の上方、東西に一本の紐、南北に一本の紐が緩くわたされている。紐は白く細く柔らかい。
2本の紐は風が吹くたびにふわふわ上昇し、触れ合い、擦れ合い、離れたりする。その様子から、鑑賞者は、人間同士の出会いや運命の交錯に思いを巡らすことになるだろう。
筆者が展示を訪れた際には、たくさんの鑑賞者が、「密」にならないよう、感覚を空けて見入っていた。知らない人同士は離れて観ていて、恋人同士は寄り添ってみていて、人間たちも一本の紐みたいだ、と思った。
2 無題
硝子で囲まれた中庭の地面に、水のなみなみと入った大小様々な小瓶がまばらに置いてある。瓶はどれも透明だが、それぞれ微妙に色や形が違うため、そこを透ける光にもまた微妙に差が出る。
それぞれ似ているようでそれぞれ違う光たちを眺めた鑑賞者は、神の視点から見た生物の種(しゅ)のようだと気がつく。樹形図すらも思わせる。硝子瓶も、光も、水も、無機物の筈なのに、有機物の薄い影を連想させるのは、作品の力なのであろう。
3 母型
円形の部屋の中に、小さな水滴のようなビーズが無数に浮かんでいる…ように見えるが、天井から見えるか見えないかの細い透明な糸が何本も垂れ下がっており、ビーズはここに結われている。
大地での役割を終えた水滴たちが空へ戻っていくようにも見えるし、空から大地へ降っていく雨粒のようにも見える。生命に命を与えた/与える水たちの循環の一瞬を切り取ったかのようで、自然と神のような視点となる。
撮影:畠山直哉(出典:「cinra.net」2020.7.31付記事)
4 内藤作品の「神の視線」
内藤の作品は、神の視線を鑑賞者に与える性質を持っている。"神の視線"は以下の2点から来る。
(1)時間感覚の拡張
有機物の時間には限りがある。動物は死に、植物は枯れる。しかし、水や硝子などの無機物の時間はほぼ永遠である。上で扱った内藤作品は、モチーフとしても素材としても、有機物に寄ることなく、それでいて命の影を感じさせるような無機物作品となっている。内藤作品の魅力の一つは、命の影を持つ無機物を通じて、永遠のような時間感覚を鑑賞者に与えることである。
この文脈で、敬意を以って敢えて申し上げるならば、小さな木人形を大きな木テーブルに並べた内藤作品「ひと」は、モチーフの面で有機物(=人間)に近づき過ぎているがために、時間感覚の拡張が薄い印象を持った。
(2)微視・巨視の遷移
内藤の作品には、繊細微小なものから成る集合体作品(上記でいえば無題や母型)、もしくは繊細微小なものの単体作品(今回の展示中では、展示室の壁に爪ほどの小さな鏡片を貼った作品「世界に秘密を送り返す」等)が多い。
前者を鑑賞する場合、通常、遠くから徒歩で作品へ近寄ることになるので、まずは集合体が目に入り、そしてその微小な部品1つ1つに目が行くという、視点の微視化が起きる。その後、鑑賞者は再び巨視的に作品を鑑賞することになる。後者に関しても、これと似た微視化と巨視化が起きる。
この繊細微小をめぐる空間的な微視化・巨視化が、まるで鳥になったような、めまいにも似た、神になったような感覚を鑑賞者に与える。これは内藤作品の魅力の一つである。
生や生気。そういうものの発見や回復ということはずっと考えています。人は、自分が本当に生きていることに対する心からの実感を持ちたいと思っているんだけど、そのことにも気がつかない場合が多いんじゃないか。絶対あるだろうに、蓋をしている。それは私自身もそうで、それを解放する時間を持ちたいから作品を作ったり見たりしているんだと思います。---内藤礼(cinra.net 2020.7.31付記事)
「生や生気」は自分で回復させるしかないことを、内藤は指摘する。しかし、蓋を「解放する時間」を与える内藤作品は少し神に近いように思ってしまうのは、人間の性なのだろうか。
(↓ハートの「スキ」を押すとアラビア語一言表現がポップアップします。ミニ・アラビア語講座です。)