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成長する水晶(西巻真歌集『ダスビダーニャ』)
西巻真歌集『ダスビダーニャ』(2021年、明眸社)は、生活の苦さの中に水晶のような美しい歌の混ざる歌集だった。
弱者といへど左翼にはあらず深夜便告ぐるホームの電光を見き
「ダスビダーニャ」p73
就労支援としての農業、わが貧はどこへも行かず麦揺れゐたり
「土」p145
上記のように、歌集全体に生活の見えてしまう苦々しい歌も多く、こちらも苦しくなる。秀歌ばかりとは言えない。それでもその苦さの中に、時おり水晶のように澄んだ歌たちが混ざる。
夭折の、そのはつゆきのうつくしい白さについて考へてゐた
「三つの死のあとに」p16
夭折(ようせつ)は若くして「早く」死ぬこと。初雪は、その冬に初めて降る雪のことで、「早さ」に通じるものがある。夭折と初雪の「早さ」という共通点を力点としつつ、読点が、上の句に不思議な構造を生んでいる。
散文であれば、もしくは伝統的な理路整然とした短歌であれば、この読点は必要ないとされるであろう。しかし、短歌における読点は、会話体的な意味の圧縮を生む。
この歌の場合、「夭折の、」によって圧縮された意味を希釈すれば、例えば「夭折という一種の憧れの世界から降ってくるところの」その初雪の……のようになるだろう。しかし、夭折への憧れを文字にするのはあまりに野暮であるかもしれない、という思考の躊躇いが、この歌のような読点に繋がったのであろう。
短歌では読点により、意味を圧縮したり、思考をリアルに描くことができる。人間の思考は常に理路整然としているわけではない。いやむしろ、混沌としているときの方がほとんどだ。
ぼくはぼくを生きるほかなく沸点を越えてゆらめく水を見つめる
「雨の林道」p177
人は違う自分へ変わることを夢見る。が、自分は自分として生まれてきたのであり、人格は多少の修正はできても、180度変えることは不可能に近い。が、それでも人は変わりたいと願う。「沸点を越えて」という表現にはそういう願いが込められている。と考えるとき、「ぼく」や「ほか」という音は静かに沸騰している水の音、心の音のようにも聞こえてくる。
他にも、以下のような美しい歌たちがある。暗い洞窟のような日常の苦しさの中に、こんな美しい水晶が成長するなら、苦しみも苦さも無駄ではないかもしれない。
夏の雨昏しといへど或る時は放課後のやうに思ふことあり
「ひかりと思へ」p52
レオン・ブルム(あなたは歴史に名を残すことがなかつたが、決して無駄ぢやなかつた)その凡庸な善
「レオン・ブルムと凡庸な善」p98
エクレアをほんやり裂いてゐるやうな気持ちでぼくは秋を過ごした
「どんぐり」p103
金魚が死んだ理由なんて知らない エーリッヒ、わたしのエーリッヒ
「空中戦みたいに」p156
なぜ意味を追ふのかぼくはわからずに夜まで見てゐたよ梅の花
「雨の林道」p182
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