習慣継続には、ある程度の義務感が必要
こんにちは。チキンカツと申します。主に習慣の記録を投稿していますが、その中で個人的に凄く大きな変化がありましたので記録のためにも書きます。あくまでも個人的な主張ですのでお気になさらず。
もともとは何者でもない自分が怖くて唯一足が速いことが取り柄だった自分がそれで自分を確立しようと高校から色々力を入れて行動をするようになりました。その中で松坂大輔の日記に出会い、運動日記を書くようになりました。体重を落とす必要があったために運動日記が生活日記を含むようになってきました。夢破れ運動をやめてからも日々を無駄に感じないようにするために毎日気にしないといけないことは習慣として項目化しノートに記録していました。今では便利なアプリがあり、そこで記録をしています。
習慣と一言に言っても歯磨きも習慣ですし、英語の勉強も習慣です。色々項目をつくって毎日記録をしていましたが、続いたり続かなかったりという日々を過ごしています。
あくまでも習慣はゴールでなくて、本当は習慣の先にゴールがあります。僕の場合は体重70キロを切るということやピアノを弾けるようになるということです。
習慣を続ける過程でうまくいく日々もあれば、うまくいかない日もあります。自分が間食をしないというルールを作って30日続けたとしてもそれで痩せるかどうかは決まっているわけではないです。当たり前ですよね。お金を払って教室やコースを組んでいるわけでもないので、自分の見立てで〇〇日でいけるだろうと考えるわけです。教室に通っていたとしても目標の達成と習慣の日数や強度に関しては正確に把握することは難しいです。
その中で気がついたことは習慣を続けることでゴールを期待することが間違っているのではないかということです。世間一般で溢れている〇〇日で△△達成する!みたいな考え方自体を変えないといけないということです。もちろん半年後に試験がありそれに向けてどうしても達成したいとなると話は違いますが、痩せたいとか英語を喋れるようになりたいとか、あくまでも願いが個人の願望レベルでかつ通年やり続けないといけないことであるのならば習慣化は目標を達成するための行動だけでなく義務的な要素を含むと思います。毎日する中でやりたくない日もあると思いますし、目標に達成するかどうか見えなくなることもあると思います。その中で続けるのは目標を達成するためでなく、毎日それをしないとやれていない気がするからです。逆の発想です。今日運動をしたり、テキストを開く自分は少なくとも目標達成に対して向かっていると思う権利がある。その権利を得るために行動をするのです。僕の場合はこの考えがしっくり合いました。
成長曲線は階段に例えられますが、階段の中で踊り場のように記録が伸びない時期が必ずでます。その時期にも続けるには、記録を伸ばしたいという希望でなく、今日やらないと気持ち悪いから結果が出なくてもやるという義務的な発想だと感じました。
読んでいただきありがとうございました。
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