作っちゃう、使っちゃう
最近、“面白い”という言葉は残酷だな、と思うことがある。
僕の好みはサスペンスやホラーに偏っている。物語の中では、しょっちゅう大変なことが起こり、人が死んだりもする。ある作品に“面白い”と感じたとして、だけどもしかしたら似たような形で現実に恐ろしい思いをしたり、悩んでいたり、家族や大事な人を亡くした経験のある人もいる可能性があって、そういう方々にとっては、たとえそれがフィクションだとしても、もはや当事者と言ってしまえるような場合もあるんじゃなかろうか。
そんなふうに考え始めてしまったら、なんだかウヒャウヒャと「面白かったあ!」なんて語れない気がしてきてしまった。こんなの言い出したらキリがないのだけれど。なので、己の抱える“面白い”と、なるべく真剣に向き合わねばと思うし、せめて自分が何をどう面白がっているのかを解きほぐしたい。
先日、話題作にして最新作にして、殊日本にとっての問題作、『オッペンハイマー』を映画館で鑑賞した。これをどう感想を残そうかと考えたとき、前述のような“面白い”との向き合いが必要と感じる作品だった。
正直、作品に対してどうこう言えるような権利を認めていただけるほどには理解が追いついていないように思う。僕は世界史も戦争史にも詳しくないし、特別な科学の知識も持ち合わせていない。加えて、なかなかに時系列が混乱する作りだったりもしたもんですから、さらには途中からオシッコも我慢していたもんですから...(言い訳ばっか)
そんなでも、僕が“面白い”と思ったこと。それは、「人は、やってしまう生き物なのかもしれない」ということ。
最近たまたま同時に接種していた、劉慈欣『三体』や、ダン・ブラウン『天使と悪魔』にも、「科学技術のもたらすジレンマ」というようなテーマが出てくる。人は作ってしまうし、使ってしまう。そのことを考えるのが僕はつくづく“面白い”と思う。思ってしまうのだ。
後世に振り返ったとき、「あれはマズイ発明だったかもしれない」「あれが無ければ!」と、ようやくわかるようなものも、実はたくさんあるんじゃなかろうか。例えば、なんだろう、iPhoneとかはけっこう人の営みを捻じ曲げたかもしれないレベルの品だと思う。めちゃ便利だ。便利すぎる。けしからんくらい。でも作る。使う。もしかして、それこそが人類であり、その冒険心こそが進化の礎だったりするかもしれない…なんて考えるのだ。
そして、これは科学だけの話じゃないように思う。ミュージシャンとして僕は、自分に無理矢理引き寄せて考えてみたりする。ある日「途轍もなく美しいけど、特定の年齢以上の人が聴くと死ぬかもしれないコード進行」とかを発想、もしくは発見してしまったらどうするだろうか。曲の中にそれを組み込めば、間違いなく至高の音楽になる。けど注意喚起したところで完璧なコントロールは難しい。作るべきじゃないかもしれない。さあどうしよう!『世にも奇妙な物語』とかにありそうで楽しい。
ここで大事な匙加減は「かもしれない」だと思う。オッペンハイマーで言うところの「ほぼゼロ」。
自分は…うーん、やらない!とは言い切れない気もする。好奇心と、自己顕示欲と。そんで誰かと競争になったりしたら、さぞ焦るだろうと想像する。
僕の観た上映回は、年配の方が多かった。そこに勝手に何かを当てはめて想像するのは失礼だし必要も無いのだけれど、間違いなく僕とは全く違った観え方や感慨があっただろうし、呆れや怒りもあったかもしれない。ただ、誰かがスカッとするための映画では無かったように思う。手渡された現在の世界のエピソードゼロを観せられたような、そんなお話だった。
たぶん今は、人類が総出でホントの意味で賢くならないといけない時代で、その冒険心の手綱を緩める段階なのかもしれない。
…と、そんな文章をiPhoneのメモ機能に入れると、PCに自動で共有される。科学すげえ。
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