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「心がついていかない…」その感覚の正体──惨事ストレスとは?

災害や事故、想定外の衝撃が心に影を落とすとき。
「何も手につかない」「眠れない」「頭から離れない」──そんな経験はありませんか?それは、心が強いショックに反応する**「惨事ストレス」**かもしれません。

ただの気のせいではありません。戦場での兵士の体験から災害現場の支援まで、このストレスは長い歴史の中で解明されてきました。本記事では、誰にでも起こりうる惨事ストレスの仕組みと、現代で進化したケアの方法をご紹介します。

筆者は、国立精神・神経医療センター認定のWHO版のサイコロジカルファーストエイド(PFA)講師であり、EMDRプラクティショナーとしても実際の災害支援の現場に携わってきました。ここで得た知見をもとに、心を穏やかに保つヒントをお伝えします。

1. 惨事ストレスとは何か?

私たちは日常生活で、自然災害や事故、暴力事件など、予期しない出来事に直面することがあります。これらの出来事が心に大きな衝撃を与えるとき、**「惨事ストレス(Critical Incident Stress)」**と呼ばれる反応が生じることがあります。

症状は人それぞれですが、以下のようなものが代表的です:
• 強い不安や恐怖感
• 眠れない、悪夢を見る
• 仕事や日常に集中できない
• 過去の出来事がフラッシュバックする

一時的な反応で自然に収まるケースもあれば、ケアが必要になる場合もあります。しかし重要なのは、これは誰にでも起こりうる「自然な心の反応」であり、決して弱さではないということです。

2. 歴史的な発展:惨事ストレスという概念はどこから来たのか?

(1) 戦場での気づき

惨事ストレスの研究は、第一次世界大戦中に兵士たちが経験した**「シェルショック(砲弾ショック)」**がきっかけです。当時は、神経系の異常と見なされていましたが、後にこれは心理的ストレスの影響だと理解されるようになりました。

(2) 災害支援現場への応用とデブリーフィングの課題

1970年代に入ると、戦場以外でも惨事ストレスが注目されます。消防士、警察官、医療従事者など、災害や重大な事故に関わる人々が、惨事により心的外傷を受けやすいことが分かってきたのです。この流れの中で、カナダの精神科医ジェフリー・ミッチェルが提唱した**「惨事ストレス・デブリーフィング(CISD)」**が広がりました。

しかし、その後の研究によって、デブリーフィングが必ずしも有効とは限らないことが分かり、むしろ一部のケースでは悪化を招く可能性があるとして現在では推奨されていません。

たとえば、Bissonら(1997年)の研究やRoseら(2002年)のメタ分析では、トラウマ直後にデブリーフィングを行った被災者の一部で、PTSDの発症リスクが増加する可能性が示されています。これは、早期に詳細な感情を引き出し再体験させることで、脳がショック状態から十分に回復する前に過剰な負担がかかることが原因だと考えられています。

そのため、デブリーフィングは多くの国際的なガイドラインで禁忌とされ、**代わりに推奨されているのが「心理的ファーストエイド(PFA)」**です。

3. 現代における惨事ストレスケアのあり方

現在の惨事ストレスケアは、単なる事後の対応だけでなく、事前の予防や回復を促す包括的なアプローチが重視されています。以下の3つが主要な支援の柱です。

(1) 心理教育:事前に知識を持つことの重要性

災害リスクに直面しやすい職業の人々に対し、「惨事ストレスとは何か」「どのように対応するか」を事前に教育するプログラムが多く存在します。事前に心の動きを理解しておくことは、予期せぬ出来事に対する**心理的レジリエンス(回復力)**を高めるのに効果的です。

(2) 初期介入とサポート:心理的ファーストエイド(PFA)

惨事直後の初期対応として、**「心理的ファーストエイド(PFA:Psychological First Aid)」**が推奨されます。これは被災者に安心感を与え、混乱した感情を受け止めるための支援法です。

筆者もPFA講師として現場に関わる中で、話を聴きながらも無理に感情を引き出さないこと、寄り添いながら適切なタイミングで必要なサポートを提供する重要性を強く感じています。

(3) 長期的なトラウマケア

惨事後にストレスが長期間続く場合、専門的な治療が必要になることがあります。EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)や認知行動療法(CBT)が効果的とされ、筆者もEMDRプラクティショナーとしてこうしたケアに携わってきました。また、仲間同士の支え合いであるピアサポートも回復を後押しします。

4. 惨事ストレスケアの未来へ

現代の惨事ストレスケアでは、ただ「被災者を保護する」という視点にとどまらず、被災者自身の**回復力(レジリエンス)**に光を当てる支援が求められています。被災者は一方的に助けられる存在ではなく、自分の力で心を立て直すことができる、という視点です。

そのためには、専門家による支援と、地域社会が持つつながりの力が欠かせません。支援する側もまた、支援に疲れないよう適切な自己ケアを行う必要があります。

5. 終わりに:心の波が荒れるときには

惨事ストレスは決して弱さや異常ではなく、誰にでも起こる自然な反応です。そのため、早期の理解と適切なケアが心を守る鍵になります。もしも身近に心の不調を抱える人がいたら、無理に励ましたり解決を急がず、ただ話を聴くことが大切です。必要な場合は、専門家に相談することもためらわないでください。

**心がザワザワしたときには、ひとりで抱え込まず誰かと話しましょう。**その先に、きっと新たな「凪(なぎ)」が訪れるはずです。

この記事が、あなた自身や大切な人の心の健康を守るヒントになりますように。

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