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「ナニモノかであらねばならない」という焦りは、実は「非本来的な生き方」ではないのか?
私たちは、人生のどこかで「何者かにならなければ」という焦りを感じる。転職のタイミング、キャリアの岐路、あるいは社会的な肩書きを失う瞬間に、この思いはとりわけ強くなる。
しかし、ハイデガーは「何者かであろうとすること」そのものが、実は「非本来的な生(Uneigentlichkeit)」である可能性を指摘する。私たちは社会の枠組みのなかで、「世人(das Man)」の目を気にしながら、誰かに認められる自分を演じる。その結果、自分の本質とは無関係な「役割」に縛られ、いつしか「本来的な自己(eigentliches Selbst)」を見失ってしまう。
「世人」によって定義される生き方
ハイデガーの言う「世人(das Man)」とは、いわば「みんながそうしているから」という価値観の総体である。
たとえば、「安定した職についていなければならない」「肩書きを持っていなければならない」という圧力は、実は私たちが自ら選んだものではなく、「世人」によって課された規範だ。
私たちは、気づかぬうちに「世人の期待に応えること」を生きる指針にしがちだ。しかし、この生き方は、「私が本当に望んでいること」から遠ざかるリスクを孕んでいる。
「非本来的な生」とは何か?
ハイデガーによれば、「非本来的な生」とは、自己の本質から逸れ、「世人」の価値観に流される生き方を指す。
「何者かでなければならない」という焦りは、「私は社会において有用な存在なのか?」という問いと結びついている。しかし、この問いはそもそも、「世人の視線」なしには成り立たない。
私たちは、肩書きやキャリアの成功によって「価値のある存在」になろうとするが、それは果たして「私自身の本質」と関係があるのだろうか?
「本来的な生」を取り戻す
「本来的な生(eigentliches Leben)」とは、「自己の投企(Entwurf)」を意識しながら、主体的に自らの在り方を選び取る生き方である。
本来的な生を生きるには、「世人」の価値観から一歩引いて、自分にとって本当に意味のあることを見極める必要がある。
「何者かである必要はない。ただ、ここに存在すること、それだけでよいのではないか?」
この問いに向き合うことが、本来的な生を取り戻す第一歩となる。
「凪」としての生き方
「凪」とは、風が止み、海が静かになる状態を指す。しかし、それは単なる静寂ではなく、波の動きを受け入れ、内的な調和を取り戻すことを意味する。
本来的な生を生きるとは、「凪」のような状態を得ることではないだろうか? すなわち、世人の価値観に流されず、自分自身の本質と向き合い、自らの生を穏やかに、しかし確固たるものとして歩むこと。
「凪」を生きるとは、何者かになろうとするのではなく、ただ「ここに在る」ことを大切にする生き方である。それは、焦りや不安の波に翻弄されるのではなく、その波を受け入れつつ、自分のペースで進むことを意味する。
本来的な自己とは、「世人の期待」から離れ、自分の存在そのものを肯定できる状態にある。カウンセリングオフィス「凪」では、ナニモノかになるのではなく、あなた自身が「本来的な生」を生きることをお手伝いいたします。