準備【ショートショート】
「地図を、探している」
ふと目の前に現れた男が言った。30代ぐらい、黒ぶちメガネ。
ロードマップ、地形図。
いや、路線価図かも…
司書の宵野明美は、70歳の頭の引き出しから、考えを巡らせた。
男は、近くに誰もいないことを確認したあと、ささやいた。
「らしんぎ、かいず」
明美は、一呼吸置いて男の顔を見た。
「いま、羅針儀海図、とおっしゃいましたか?」
男が、頷く。
図書館に勤めてから、海図のレファレンスは初めてだ。古い写真、文献。関連資料はないか、明美は調べ始めた。
羅針儀海図とは、港や海岸線を写実的に描いた、世界最古の地図だ。
13世紀に、イタリア・スペイン・ポルトガルで製作されたのが始まりといわれている。
アメリカ議会図書館に、14世紀前半のものがある。
明美が、時間がかかることを伝えると、男は「後日また来る」と言って、去っていった。
コレというものが見つからないまま、カウンターを交代する時間になった。
お昼は、いつもの喫茶店だ。昔ながらのメニューで、混んでいないので気に入っている。
明美が注文して待っていると、となりの席のお客さんが、会計に立った。
椅子に置いたままの雑誌を、自分のほうへ引き寄せた。開いたページから、新聞サイズの巻き紙が、落ちた。
拾って開いてみる。
外国の地図か。放射状の直線が描かれている。
ぺリプルスの記述に、T O図の装飾的なイラストが美しい。
こ、これは…
羅針儀海図だ!
どうして、ここに?!
その時、店のお客さんたちが、窓のブラインドを閉めはじめた。同時にマスターが、入口を準備中にする。
ええっ! どうした??
人びとが、明美の周りに集まってきた。
あっ、いつも学習室にいる高校生たち。
あの人は、資格の勉強をしているサラリーマン。
雑誌コーナーにいる、きれいな女の人。
新聞を取り合う、おじいちゃんもいる!
いつもの、図書館メンバーだった。
ひとりの男が、明美の前に進み出た。
さっきのレファレンス男だ。
リーダーだったのか。
彼は、メガネを外して言った。
「明美さん、あなたに『ルーデンス図書における、エクス・リブリス』を与えます」
と、よく通る声で告げた。
つ、つまり…
その図書チームのメンバーに選ばれた、ということ?
確かめるように、マスターの顔を見ると、彼も話しだした。
「我々は、船が漂流したときのための、クジラを用意した。
カラスは、最も近い陸地を探すように、訓練した。
足りないのは、ラテン語を扱える勇者。
明美さん。あなたです!」
ラテン語の勉強をしてきたのは…
夢のための、準備だから…
明美は、涙ぐんだ。
「光栄です」
(了)