保育科の就職活動
保育科の就職活動について書こうと思う。私が就職活動した時なので、もう20年以上前のことだけど。
私が通っていた短期大学は、都下の山の中にあり、緑が多かった。学校の側の畑には牛が一頭だけいた。ペットだったのか、それとも・・・。学校では幼稚園教諭と保育士の両方の資格が取れたのだけど、2年間で二つの免許を取るので、ここは高校か!というほど毎日めいっぱいの授業だった。保育園か幼稚園、どちらに就職するか悩んだ結果、自分が幼稚園に通っていたことと夏休みや冬休みなど、長い休みが取れるじゃないか、とそんな理由から幼稚園へ就職することに決めた。
就職先探しは、自分が実習に行った園に連絡しても良いし、就職課に張り出されているところから探す方法があった。募集している幼稚園や保育園、乳児院などの施設一覧が張り出される。書かれていた情報は、園の名前、住所、初任給、園児数もあったかな、それから下宿について。「下宿・可」「下宿・不可」とあり、一人暮らしでも良いかダメかという意味。最初見た時、なんでかしら?と疑問だったが、ちゃんと親元から通って欲しいということらしい。特に幼稚園の方が「下宿・不可」が多かった。それと、幼稚園教諭や保育士はお給料が安いので、アパートを借りたら家賃だけで生活が苦しくなるということもあるよう。クラスの子で早々に幼稚園に就職が決まった子がいた。その子は実習した園に運よく就職できたのだけど、給料が安くて生活出来ないからキャバクラでバイトすると言っていた。
今はわからないけれど、私の時は一つの園を受けて結果が出るまでは他の園を受けてはいけないという暗黙のルールがあった。受かった園を辞退すると学校の信用に関わるからというのが理由。そのためどの園を受けるか、ぐるぐる悩んだ。
やっぱり通勤は楽だといいな、お給料も多い方がいいな、と就職課の一覧を何度も何度も眺めた。そして家から電車に乗らず自転車で20分と割と近く、お給料は安かったけど園児数が少なめでアットホームな感じの園に決めた。面接日が決まり、スーツを着て履歴書を持って園へ向かった。
その園は一軒家を改造したような園。門を開けると両側に植木が植っていて、人の家に入っていく感じ。園の中を案内され、最初のクラスに入って驚いた。壁にテレビカメラがついている。今では設置されている園は結構あるけれど、その当時は珍しかった。見られてるの嫌だなぁと思いながらひと通り園内を歩き、事務室に通された。テレビモニターがあって、各クラスの様子が映されていて、子どもの声がスピーカから響いていた。見張られている感じ・・・。そして、緊張しながら履歴書を渡した。女の園長先生(いくつくらいだったのか、たぶん50代くらいか)が私の履歴書を眺めて「あら、お母さまは?」と聞いてきた。当時の履歴書には家族欄を書くところがあって、私の履歴書には父と妹の名前だけだった。「母は私が高校の時に病気で他界しまして・・・」と言うと「お母さんがいないのはちょっとねぇ」と言われた。
その後、何を話したか覚えていない。帰り道、乗ってきた自転車を押しながら、地面が歪んで見えたことだけ覚えている。「下宿・不可」の園で、ちゃんと実家から通うから大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかった。その時は悔しさや怒り、悲しさなんかがぐるぐる回っていたけど、後になって、そんなことを言う人の園で働かなくて良かったと思えた。幼稚園の先生にもそんな人がいるんだな、と知った。
そんな就職活動のことを思い出していて、ある言葉も思い出した。『逆境にくじけるな』という言葉。中学の時に卒業文集の寄せ書きに書いたその文字。大好きなアーティストの歌詞に出てくる言葉で、その当時は真似して書いた言葉だったけど、今になって自分に届いた。これまで、自分の努力ではどうにもできないことがたくさんあった。でも、その時その時を一生懸命に向き合ってきた。あ、逆境にくじけずやってこれたじゃないか。これからもきっと、なんとかやっていけるはず。
結局、最初に受けた園は落ち、次に受けた幼稚園に就職した。都心に向かう電車には乗りたくないから、逆方向というのを条件に選んだ。その時の就職試験は国語・数学・英語が数問ずつあるテストと椅子取りゲーム。たしか一番になった気がする。全園児が300人以上いるマンモス幼稚園。入職後に聞いたら、上の先生は椅子取りゲームじゃなくて習字を書かされたそう。同期とも仲良く仕事ができたので、就職できて良かった。その後いくつか転職し、今は保育園で働いている。
最近は保育士不足が問題になっていて、どうにか就職してもらおうと引越し費用や住居手当を出すところもあるそう。ひとり親家庭も増えて、父の日母の日をなくした園もある。多様性の時代とオリンピックでも謳ってる。保育の世界もイロイロな変化を受け入れて、その時その時にあった対応が必要だな。
色々思い出した就職活動のお話でした。