諦めることが幸せに繋がる時もある
先日、下の子とばあちゃん(母)のやり取りの話を書いた。
子どもたちとばあちゃんのやりとりは、時に私自身を癒してくれる。
なんでかなって考えてみたらこんな感じ。
私が子ども時代に言えなかったことを子どもたちが言ってくれてる
それに対してばあちゃん自身が「そういう考え方もあるな」と受け入れてくれることがある
上の子と私の価値観は近い。
そして下の子と私の感覚は近い。
でも、表現方法が違う。
母の前で感情を表現すると、どうやっても火に油になるのが面倒で、中に押し込めることを選択してモヤモヤしてきた私と違って、彼らは恐れずに(氣にせずに)感情をぶつける。
でも、感情のままに表現するわけではなく、どっちかというとピシャリ、と遮断する感じ。
そんなでも、【身内で女】以外のものであれば、自分とは違う存在を認められる母は、感情に火がつくこともなく、一歩引いて孫たちの言葉を捉えられ、冷静に受け止めることができる。
子どもたちと私は違う人間だから、私の『代わり』をしてくれてるなんて思うのは子どもたちの存在を否定するような氣がして嫌いで、私の奢り以外の何物でもないと恐怖する。
だけど、あえて。
私の代わりにぶつけてくれてありがとう。
子どもたちの存在に、私は癒されて救われている。
これまでの私は、言葉のポテンシャルを信じ、振る舞い方を相手によって変えることで、全然違う価値感の人にも想いを伝えられるはずだって思ってた。
けれど、やっぱどうにもならないこともあるよねって、心の底から納得した氣がする。
いや、本当は、わかってた。
技術系のカスタマーサポートをしてた時、どんなに理論立てて話しても、女だっていうだけで「話にならない」と聞く耳を持たない人がいた。
(台本を渡して全く同じ内容を男性に伝えてもらうとすんなりいって、本当に悔しかった)
私の母にとって【身内で女】は守るべき存在。
守る代わりに自分が守れるようにあらゆるものを制限するし、自分のわからないものは認めない。
この条件に当てはまる以上、どんなに私が言葉を尽くしても、どんなアプローチをしても、母は自分と違う私の部分を受け入れるどころか、受け止めることすらできないのだ。
もしかしたら、母が認められる圧倒的な権威を持てば変わるかもしれないけれど、残念ながら私は権威にはてんで興味がないのでこの先もきっとダメだと思う。
私の心からの願いである「私の言葉によって、母が私の『母とは違う部分』を受容して、あわよくば認めてほしい」は、たぶんどうやっても叶わない。
諦めの悪い私だけど、もう固執するのはやめにする。
手放すのがきっといい。
私の言いたいことは、子どもたちが言ってくれる。
子どもたちの言葉を受け入れる母を見て、代替的に癒される。
それで十分だと心から思えるようになる方が幸せなんだろうと思う。
これは主観じゃなくて客観的に見た結果でもある、とかぜの帽子さんの記事で氣づかされた。
まあ、そう心から思えるようになるには、もう少し時間がかかりそうだけど。
これもきっと昇華の一種なんだろうな。