21/01/02 生活上の思想哲学
日記3日目。
起き抜けに文章をアウトプットすると頭の中身が整理することができて、その日を快適に過ごせるようになるんじゃないかと思いついたのは昨日日記に書いた通りで、早速実践してこれを朝に書いている。
6時に起きて、そのまま布団の中で携帯をもぞもぞ2時間くらい触って8時半頃に朝食を取り、9時ちょっと前に執筆している、今。
起きた後に布団の中でスマホいじって時間を過ごすのやめたほうがいいと思うんだけど、それでもやってしまうんだよなあ。明かりと頭動かすおかげで確かに目が覚めるから。
でも本来、起き抜けに目を覚ますには身体を動かすのが一番健全なわけで、身体の内部から交感神経を目覚めさせていくべきなんだよな。
スマホのライト・スマホに映る膨大な情報を目覚ましのトリガーにするのはほんとに現代的で良くない。外力によって目を覚ますとしても、許容できるのは太陽光くらいしかない。
技術の進歩は目覚ましいが、人間の生物的な機能はほとんど変化していないんだから、生活が便利になったおかげで却って捨て去ることになってしまった習慣に、常日頃から注意を向けていく必要があると感じている。
便所が和式から洋式になったことで足腰の筋力が低下したとか、その類の話は例を挙げればキリがないほどあるからだ。
生活上の必要に迫られれば、負荷の掛かる運動は誰だってできるけど、その必要性が無くなれば途端に運動できなくなるものなんだと、自分の経験と照らし合わせても本当に痛感する。
生活が便利に楽に拡張されていくことと、人間が本来備えている能力が衰えていくことは完璧に比例する。
平沢進は、以下のような言葉を残している。
本っっっ当にその通りだと思う。
このような考え方を持つ人が作る音楽なんて、そりゃあ面白いに決まってる。
これは、自身が、身体を用いて表現を行う「ダンサー」であるからこそ意識を向けていようとしている事柄ではあるけれど、本来だったら誰しもが気に掛けるべき問題であるはずなんだよなと思っている。身体という土台がなければ、人は存在できないのだから。
まあ私自身、この問題はダンスを通して身体と真剣に向き合うことによって初めて自力で気が付けるようになったものであるから、現代の情報洪水に晒されていては意識するのが難しいものであるということも判っている。
というわけで、運動、しよう。
(最近読書と文筆にかまけてるから私が疎かになってる。マジで自分に語りかけてる)
こういうことを真剣に考えるきっかけを与えてくれた、野口三千三の身体哲学は偉大。
『原初生命体としての人間』は本当に良い本。
日本の風土で生活している身には、日本の風土で生まれた哲学や身体論が最も適している。
グローバル社会になったおかげで、海外の思想家・学者の思想哲学に簡単に触れられるようになったのはいいことだけど、肝心で忘れてはならないのは、それを発言した人物がどういった環境で過ごしたのか、という背景を押さえたうえで内容に触れるべきだということだ。
人間は何かをインプットしても、それが肌感覚で理解できなければ、知識を自らの道具として扱うことは決してできない。肌感覚に引っかからなければ、インプットしてもすぐに忘れてしまうものだ。
人が自らの言葉として発信できるものは、終始その人の経験に基づいているものに限られるのであって、その「経験」というものは、個々人がそれまでの人生で触れてきた文化や歴史に支配される。
国が違えば当然歴史や文化が異なるわけで、他国の思想を安易に取り込もうとしても上手く自分の中で消化できない場合が多い。
その消化を助けてくれるものが、歴史の勉強だったり発言者の人物像を把握する努力だったりする。
「楽に手っ取り早く勉強が身に付いたらいいな」とは日頃から考えてしまいがちだけれど、本当は何事もそれ相応に手間と時間をかけないと身に付くことはない。
手間と時間がかかったものだからこそ、世の中はそれを貴重だと見做すわけだからだ。
そして、言語発信だけでなく、音楽・絵画・踊りなど、数えきれないほどある多種多様な表現、それらだって経験というフィルターを通すことでしか具現化することはできない。
能は日本でしか生まれようがなかったし、フラメンコはスペインでしか生まれようがなかった。歴史と文化を学べば学ぶほど、それが理解できるようになる。
面白いものを作り上げたいなら、新しいものを生み出したいなら、歴史と文化の勉強は絶対に避けられない。
適当に書き殴っていると毎度話題が意図しない方向に飛び散るが、文章って普段考えていることしか出力できないなと改めて思い知らされた。
良いものを書こうとして短期集中的に努力しても一切取り繕えないから、文章だろうが舞台の本番だろうが、それまで地道にやってきたものだけが結果に表れる。
日進月歩でしか人は進歩しないということは、地上から見た天体や身近にある草木がいつも教えてくれている。
自然は何だって教えてくれている、あちら側から声高に語り掛けてくることはなく、その身を以って静謐に、それでいて堂々と。
気付いた者にだけ微笑みかけてくれる。
世の中は甘くない。
ここでいう「世の中」とは、人間社会ではなく、「自然の中に生きること」を指している。