【日記】「雪松図と吉祥づくし」 ほか
三井記念美術館「雪松図と吉祥づくし」
行った。とにかく日本画が観たくて、今年初めて訪問する日本美術展だったのでだいぶ期待しながら伺った。三井記念美術館所蔵の国宝、円山応挙《雪松図屏風》を展示するほか、新年にちなんで長寿や吉兆を表すモチーフが描かれた美術品が集結している。
展示品感想
華やかなテーマな展覧会なのに加え、三井家という商家が収蔵する美術品が主な出展物だったからか豪華な装飾が施されているものが多く、見応えが感じられた。出展物の制作期はほとんど鎌倉〜江戸後期までのものに限られていたのだが、江戸期のものがとにかく見た目の華やかさに力が入れられていたのに対し、鎌倉時代に南宋から輸入された物品は吉祥モチーフと素朴さが両立されている物品が多かった。私の好みは明らかに後者で、そういったことを再確認しつつ様々な調度品を年代で比較しながら鑑賞できたのはとても良かった。
装飾によって比較的簡単に豪奢な見た目を生み出せる調度品に比べ、図画はどの年代でも共通の雰囲気を湛えていて、日本画に通底する美意識の強固さには心動かされるものがあった。江戸後期の円山応挙と、同時代の清国で活躍した沈南蘋(しんなんびん)の絵が特に目立っており、それらのキャプションでは吉祥を表す動物や草花の説明が丁寧になされていたのだが、彼らの自然風景の描写があまりに見事でそこにばかり注目してしまった。岩肌や木の幹、揺れる水面の筆致の豊かさといったらなかった。
円山応挙の《蓬莱山》、沈南蘋の《白鸚鵡図》、明治期に活躍した三井高福が柱絵のために描いた縦長の《蛭子鯛釣図》が特に好きだった。国宝の《雪松図屏風》は圧巻で、日本画特有の筆の濃淡だけで作り上げた雪を描かずに雪を表現する技術は本当に見事。「雪の積もった松」という割と身近な題材でありつつも、背景・前景にふんだんに撒かれた金地によって現実味が消え去っており、そこには確固とした幽玄な美的感覚が宿っていた。
そのほか
場所柄・建物柄か、日頃から文化に馴染んでいるであろう年配の方が多く、静かに鑑賞する人もいれば賑やかな人もおりユニークな場所だった。今年に入ってから様々な美術館を訪れるようになったので、展示物だけでなく展示場所そのものの雰囲気も楽しめるのは面白いことだなと思う。早いところ各美術館の雰囲気に慣れて展示物だけに集中できるようになりたい気持ちもあるけど。
三井記念美術館は、三井本館の7階という立地ゆえか、内装に凝ったところは少なくいたって普通のオフィスビルのような雰囲気を持っていた。仕方のないところではあるけれど、近代的構造物と日本文化の趣は調和しておらず、日本家屋の中で鑑賞してみたいと思ってしまうのが惜しかった。
美術館に行くのを習慣にして
1月中は週一以上の頻度で美術館に行った(明日にも2件行く予定がある)。本や図鑑で見ていた美術品を直接観ると、それらが決してフィクションのものではなく、私がいま存在する現実に先立って、様々な芸術を創造した偉人たちが居たのだという実感が湧く。未知の美術品や作家等に眼前で出会うのは、本や映像で見るよりもよっぽど心に残る。舞踊表現者として、実体のあるものに対する感度を鈍らせてはいけないと思う。
要素マトリクス
『独学大全』で学んだ「目次マトリクス」があり程度充実してきたので、「要素マトリクス」を作り始めた。
これは「日本文学史」というマトリクスシートの一部で、書籍に収められている情報を抜き出している。これを複数の書籍で行うことで、一度に大量の本を開くよりも手軽に各書籍の情報を比較検討できる。多くの書籍で共通する論点や、逆にどの書籍にも言及されていない論点を見つけることを補助するためのシートであり、独自の学問観を養うための重要なツールだ。
「要素マトリクス」を紹介する読書猿氏はこれのことを「知的中間生産物」と言っており、私にはその形容がとても腑に落ちている。優れたものを生み出すためには、良いものや何か特別なものをインプットしようとするよりも、インプットした情報をいかに整理できるか、の方が重要だと私は思っている。人間の記憶機能はかなり良い加減な性能をしているから、忘れても良いように・いつでも取り出せるように脳の外に記録装置を設けておくのが欠かせない。重大な知的成果物というのはそれ相応に時間の掛かる作業を伴う(まだ何一つそれを生み出したことのない身だから想像でしか言えないけれど)もので、その分記憶に頼るのは難しい。
知的作業が長ければ長いほど、こういった情報整理術は価値を増すものであるだろう。根気のいる作業で、一朝一夕ではその効能を得られないものだろうと確信しているけれど、未来の自分へ確かなバトンを繋ぎたいから、私はこれを続けていこうと思う。
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