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短編小説

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#オリジナル短編小説

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑦

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑦

きっかけになったのは一枚の古いポートレイトだった。

紗英とふたりで実家にある母の遺品を整理していたとき、それはまるで春光を待ちわびていたかのように、わたしたちの前にあらわれた。長いこと眠っていたために色と艶が失われていても、そこに映る少女の瞳までは輝きを失っていなかった。

写真には、瀟洒な教会を背景に、祭服に身を包んだ中年の神父と口元を綻ばせて笑う頑是ない少女が映っていた。わたしたちはその少女

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短編「父の秘密」

短編「父の秘密」

紅茶にマドレーヌを浸すと、幼い頃の温かい記憶がふつふつとよみがえる。そんな出だしで始まる小説を、大学時代に読んだことがある。

それと同じように、母の口紅を引いたとき、がらんどうになった意識の底へ、温かい記憶が注ぎ込まれた。

世界にとっては一瞬でも、私にとっては気の遠くなるような昔の出来事。

甘美な記憶は、ほんのわずかではあるけれど、私から喪失感を拭ってくれた。

あの時の私は、混沌とした世界

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パリ左岸の夕陽⑦

パリ左岸の夕陽⑦

私が親父とお袋を伴ってフランスへ旅立ったのは、それから二週間後のことである。

わずか二週間あまりの間にどういう心境の変化があったのか、わざわざ書くほどのこともあるまい。

強いて言うなら、そこに感傷の入り込む余地は全くなかった。

私は、あくまでも、自分自身にケジメをつけるために、フランス行きを決めたのだった。

出発当日の朝、空は、私の決断を歓迎するかのように、どこまでも晴れ渡っていた。雲は風

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