【4コマ】公任さん(二) 三舟の才(後編)
前編はこちら
週1回か2回のペースと言っていたのが、週1回か2週に1回になりそうな公任さんの連載です。こんばんは。
今回は、前回のつづき。道長に「どの舟に乗るかな?」と言われて、和歌の舟を選択した公任さん。その後どうなったのでしょうか。
公任さんが詠んだ和歌は、大鏡では以下のようになっています。
をぐらやまあらしの風のさむければもみぢの錦きぬ人ぞなき
現代語訳は、
小倉山と嵐山を吹きおろす嵐が強いので、紅葉が散りかかり、錦の衣を着ない人は一人もいない。
(講談社学術文庫『大鏡 全現代語訳』保坂弘司 より引用)
つまり、紅葉が風に舞って人びとに散りかかっている光景を、「まるでここにいる全員が、紅葉で出来た上等の服を着ているみたいだね」と歌ったわけです。
風流なこの歌はたいへん評判になり、後には勅撰和歌集である『拾遺和歌集』にもとられています。
ちなみに勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命で編纂された歌集。つまりその天皇(上皇)の代の和歌日本代表たちの優れた歌を集めた歌集というわけですね。拾遺和歌集は花山院の命で作られたといわれています。
さて、『大鏡』に話を戻すと、公任さんの歌が褒められたあと、後日談に移ります。
後日公任さんは、自分から、
「漢詩の舟に乗ればよかったなー。そのほうがもっと名声が上がったのに。ま、でも道長に褒められたのは我ながら最高だったぜわははは」
と人に自慢して話したとのことです。なぜ「漢詩だったら評判が上がった」と言ったかというと、当時、古今和歌集の時代よりは和歌が重視されていたものの、まだ漢詩の方が社会的には格調が高かったんですね。そのため、同程度に優れた漢詩であれば、プラスアルファで褒められただろうにな〜、という、取らぬ狸の皮算用というか、端的に言えばifの話ですね。
道長に才能を認められたことも含め、自分から自慢しちゃうのが公任さんのかわいいところですね。
*ちなみに、この公任さんの歌、別バージョンも残っているそうで。
藤原清輔という人が書いた歌学書『袋草紙』によれば、
朝まだき嵐の山の寒ければ散る紅葉ばを着ぬ人ぞなき
となっていたのを、花山院が『拾遺和歌集』の編纂時に「紅葉の錦」に勝手に変えたので、公任が抗議したという逸話が残っているらしいです。
「紅葉の錦」という言い回しは美しいのですが、当時はよく見る言い回しであって、表現として面白みがないという見方があるらしく。その点、「散る紅葉ばを」の方が実際の紅葉の動きに焦点が置かれている表現であるとか。(*以降の記述は集英社『余情美をうたう 藤原公任』小町谷照彦 を参考にしました)
上記の参考にさせていただいた小町谷さんの本では、「紅葉の錦」にしたがうとあったのですが、私は清輔の記述を信じて、「散る紅葉ばを」の方に一票入れたいです。
というのも、藤原清輔という人自体いくつも逸話が残っているのですが、その多くが、「清輔が口にした知識をその場にいたみなが否定するが、よくよく調べてみると清輔の方が正しかった」という話が多いのです。だから、清輔が自分の著書に書いているということはかなり信憑性が高いのでは、と思っています。
とは言え、写本を重ねるうちに、清輔自身が書いてないことまで統合されることもあるので、確実とは言えませんが……。
さて、これで公任さんの代名詞である「三舟の才」編は完結です。頑張って書くので、次回もまたぜひ読んでいただけると嬉しいです。
読んでいただいてありがとうございます! スキ!やコメントなどいただけると励みになります。サポート頂けた分は小説や古典まとめを執筆するための資料を購入する費用に当てさせて頂きたいと思います。