維盛推しの私が「富士川の戦い」を解説する(前編)
はじめに
先日の大河ドラマで、「富士川の戦い」が出てきましたね。平家物語アニメの方にも勿論出てきます。アニメ解説記事はこちら。アニメの内容ガッツリネタバレしてますので、未視聴の方はご注意を。
この戦いをごく簡単にまとめると、源頼朝率いる源氏と、平維盛率いる平家とが富士川で向かい合うも、結局水鳥の羽音に驚いた平家軍が敗走して呆気なく終わってしまった……というものです。
その情けなさが当時の平家のイメージと重なり、ついでに総大将の維盛もセットで情けないみたいな言われ方をしてしまうことが多いです。
確かに総大将なので、監督責任という点ではもちろん維盛にも責任はありますが、実は維盛は維盛で武士として最後まで頑張ろうとしていたのです。
それと平家一門で、頼朝と大将同士で直接戦をしたのは維盛だけなんですよ。
『平家物語』の記述と、当時の貴族日記に書かれた記述を紹介していきます。タイトルにも書きましたが、私は維盛推しなので、維盛擁護の視点がちょいちょい入ってしまうかと思われます。が、ちゃんと根拠は出しながら解説していこうと思いますので、あたたかい目で見ていただけると助かります。
1.出立
・『平家物語』
おそらく『平家物語』に書かれている描写が、「富士川の戦い」のイメージに最も近いのではないかと思います。そのため先に『平家物語』の流れを紹介してから、貴族日記などに書かれている記録と比較していくことにしましょう。
端的に言えば、『平家物語』で描かれているのは「弱い平家像」と「強い源氏像」です。二者がハッキリ対比されるように描かれており、その「弱い平家」の象徴として維盛が使われている……と言っても過言ではないかもしれません。
『平家物語』は読み本系・語り本系と二種類に分かれ、そこからさらにさまざまな種類の本があるのですが、今回は一般的に最もメジャーと思われる「覚一本」を使用します。これは琵琶法師が語っていたとされる語り本系「平家物語」です。
巻五「富士川」に出立から敗走までが書かれています。必要な部分だけ原文を引用して、それ以外はざっくりと流れを見ていきましょう。流れの邪魔にならないように、私の補足解説は引用機能でコメントしますね。
まず冒頭で、「頼朝の軍が勢いづかないうちに追討軍を派遣しよう!」と公卿会議で決まったとあります。そして総大将には平維盛、副将軍には薩摩守忠度が任命され、その軍は三万余り。九月十八日に福原を発ち、十九日には京都につき、二十日に東国へ出発したと書かれています。
ここで維盛と忠度の描写が入ります。これが非常にかっこいいので引用しますね。
「大将軍権亮少将維盛は、生年廿三、容儀帯佩絵に書くとも筆も及びがたし。重代の鎧唐皮といふ着背長をば、唐櫃にいれてかかせらる。路うちには、赤地の錦の直垂に、萌黄威の鎧きて、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍おいてのり給へり。副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸威の鎧きて、黒き馬のふとうたくましいに、沃懸地の鞍おいてのり給へり。馬、鞍、鎧、甲、弓矢、太刀、刀にいたるまで、てりかかやく程にいでたたれたりしかば、めでたかりし見物なり。」
と、色の描写もたくさん使って、その華々しい出立の様子を描いています。維盛に至っては、「絵に書くとも筆も及びがたし」ですからね。「絵にも描けない美しさ」を体現していた、というわけです。
ここで興味深いのが、重代の鎧を唐びつ……つまり「専用の入れ物」に入れて持って行った、とあることですね。実戦で使うのではなく「お守り」的な感じで持って行った……と解釈できる描写かなと思います。つまり、平家はまだ「戦」に危機感を感じていなかったと印象付けるための一文かなと。実際どうだったかは記録に書かれていないのでわかりませんが。
そのあと忠度の人物紹介的な話を挟んでから、維盛と忠度が宮中で出立の儀を行ったことが書かれています。しっかりした儀式で、公卿もみんな参列して「節会」として行われたそう。二人とも礼儀を正してこれを受け、節刀を賜ったとあります。そして、この節刀を賜った日には、家を忘れ、妻子を忘れ、身を忘れるという三つの心得があり、二人ともそれを承知で出立したと思うと趣深いことだなあ、という記述があります。
「これから身を捨てて戦に赴くんだね! 立派だね!」って言われているわけですが、ちょっとフラグっぽいですね。
・貴族日記
さて、ここで出立について貴族日記の方も確認しましょう。
主要な貴族日記の中で、最も早く言及しているのは、中山忠親の日記『山槐記』の記述。
それによれば、九月四日に頼朝が兵を起こしたという話があり、九月五日には東国に追討使を送る宣旨が出たということで、頼朝起兵の話が出てから一日で「追討するぞ!」って空気になったみたいですね。実際、平家方ではもう少し早い段階から噂はあったのかもしれませんが。
九月五日の宣旨で維盛と忠度、それから知度という清盛の七男が任命されています。
九月五日に宣旨が出て総大将も決まったわけですが、なんと実際に出立する予定は二十二日だと九条兼実の日記『玉葉』の九月九日の記事に書いてあります。おっそ!
同記事によると賊は五百騎程度で、官軍は二千余騎だという情報があり、余裕で勝てると思っていたようです。だからこそ清盛は練習試合みたいな感覚で維盛に大将を任せたのかもしれません。
ちなみに維盛は経験不足というイメージが強いですが、一応以仁王の乱のときに重衡と一緒に出陣して勝利はしております。連名ながら手柄は立てておるのです、ということは大きな声で補足しておきます。
出立日の前に、「頼朝を倒すために官軍を派遣するよ」という内容の書類である「官符」を発行したり、筑紫の方でも小競り合いがあって、清盛がそちらにも私的に追討兵を送っていたり、平家や貴族たちの間では色々と面倒ごとがあったようです。
その間に、頼朝は関東の武士たちを集めて徐々に勢力を増やしていた。このあたりはまさに大河でもやっているところですね。頼朝が強くなった転機は上総広常が仲間になったことだそう。大河で佐藤浩市さんがやっているあの人ですね。
そういうわけで遅れれば遅れるほど、頼朝有利になっていくわけですが、九月二十二日にようやく官符が発行され、追討使は福原を出立。翌二十三日に京都入りします。しかし、そこから本格的に関東へ出立したのは、二十九日になってからのことでした。
ただでさえ遅れてるのに、なんで一週間もさらに遅くなったのかというと、維盛の補佐につけられていた伊藤忠清の主張で「吉日を選んだ」からだと『山槐記』の九月二十九日の記事に書かれています。
ちなみにこのエピソード、以前の大河『平清盛』の方ではちらっと描かれてましたね。
この出立日について、総大将の維盛は、忠清とかなりバトルしたそうです。維盛は、「今は進軍の途中だから、旧都における忌日は考えから外すべきだ!」と主張していたそう。対して忠清は「六波羅は先祖の旧宅でもあるので、吉凶は考慮すべき」と譲らなかったとのこと。
これ、むしろ維盛の方が状況判断できてるんですよねえ。
けど結局出立は二十九日になってしまったので、維盛が折れたのか、忠清に決定権があったのか……どちらにせよ、ここは維盛としては一生の悔いになってしまったポイントでしょうね。
このエピソードが『平家物語』に無いのは、維盛が武士として冷静な判断をして言い争っている図が、『平家物語』の意図する維盛像と反していたからかなーと個人的には思います。
維盛としては平家の後継を自分に戻すため、この戦はどうしてもかっちり勝っておきたいわけで、だいぶ必死だったんだろうなと思いますね……。
・日程比較
『平家物語』
9/18 福原出立
9/19 京都着
9/20 東国へ
貴族日記
9/5 宣旨
9/22 福原出立
9/23 京都着
9/29 東国へ
と、日程を比較すると、実際と『平家物語』でだいぶズレがあります。『平家物語』の方では、京都は立ち寄って翌日には出てますね。
個人的には京都でもたもたしているエピソード入れた方がいいのにという気もしますが、万全の態勢だったけどダメだった的な印象の方が良かったんですかね?
出立の様子をきらびやかに描写しているのも、「出たときはよかったのにねー」というギャップを際立たせるためと考えられるかなと思います。
さて、前編はここまででいったん終わりです。次は水鳥事件が起こるまでに何があったか、です。
前後編にしようかと思ったけど、前中後の三部立てになるやもしれません。