古典語り(1) 「古文・漢文不要論」について思うこと
毎週火曜日は古典語りの日。ということで、この枠では、古典の作品・人物や古文学習について雑多に語っていきたいと思う。専用のサムネイルも準備してみた。記事をまとめるマガジンも新調するぞ!
初回は、今まで語ろうと思いながらなかなか語れなかったことを書こうと思う。ここでいう「古典」は、「古文・漢文」の両方を指す。
はじめに
まず、タイトルに示した通り、昨今いわゆる「古文・漢文不要論」という考えが取り沙汰されることもある。これに関して今までも語ろうと思ってきたけれど、なかなか考えがまとまらなかった。私の場合はもちろん「必要」だと思っているわけだが、「不要」とする人の意見も理解できるので、自分の考えを出すのに慎重になっていたところがある。私の考えでは「必要」なはずなのに、不要とする意見は納得できる。私の中で既に矛盾しているのでは? と。
考えてきた結果、おそらく「不要論」を唱えている方々とは、「学び」「試験」に関する考え方からして違うのだという結論に至った。
古文・漢文不要論
ネットで紹介されている意見を見る限りでは、「古文・漢文は不要」と言っている方の主張は主に以下のことだと感じた。
〇古文・漢文の知識は現代で使わないのだから試験科目として不要。
〇社会に出てから使わない知識を学校で教えることも不要。
→古文・漢文にあてている学習時間をほかの科目や社会的に役に立つことに使った方が有意義。
→少なくとも古文・漢文は必修科目ではなく選択科目にするべき。
実際、大学入試の国語でも、古文・漢文は選択問題にしたり、そもそも最初から入れていなかったりするので、大学側も思うところがあるのかもしれない。場合によると文学部の入試でも国語は現代文だけということもある。
また、「不要論」というと「学校教育から無くしてしまうべき!」みたいなイメージに思えるが、「完全に無くすのではなく、選択教科としてはどうか」「少なくとも試験科目としては不要なのではないか」という論に近いように受け取った。
私の意見
こういった意見に関して私個人の意見としては、大きく三つ。
①古典を高校で選択科目にすることは消極的に同意。
②社会に出てから役に立つ・立たないで必要か不要かを決めるのは疑問。
③現行の古典教育そのものを見直す必要がある。
①古典を高校で選択科目にすること
まず①については、単純に国語の「古文・漢文」を理科・社会、数ⅠAⅡBⅢCと同じ枠にしてもよいのではないかと思うからである。「現代文」は必修のままで問題ない。現代文は、すべての教科を読み解くための基本であり、日本で生活するときの基盤になるためである。必要か必要じゃないかでいえば絶対必要なのだ。
中学では生物・化学・物理を「理科」として、地理・歴史・公民を「社会」としてまとめて学ぶ。よく言えば総合的に、悪く言えば広く浅く学んでおく、という感じである。それは高校学習の下準備でもあるし、中学を卒業してから社会に出る子たちに一通りの知識を身に着けてもらうためでもあるだろう。同じように「国語」という大きな枠組みの中で、古文も漢文もやっておけばよい。その際は古文単語や読解は最小限にして、現代文と同じく「読解」それから「作品の背景」を重点的に学習する。「古典作品に触れる」ことを最優先にした学びをすれば十分だろう。要するに、「こういう文章が古文・漢文というものなんだ」ということを学ぶ意味合いで、中学での必修科目として入れた方がいいと思うのである。
「試験で必修にする必要があるか」という点では反論するポイントもなく、外しても問題ない、と思う。ただ古典研究をかじった者としての懸念としては「やれって言われなきゃやらない人が増え、多くの古典に触る機会が減るのでは?」ということである。
そこまで心配するのはやりすぎ、と思われても仕方ないし、そもそもやれって言われてもやらない人だっている。ただ、そうやって古文が読める人の分母が減って、研究者になる人はさらに減り、古典の研究を受け継いでいく人がもっと減り、廃れていく未来を懸念してしまうのである。
「いやいや、皐月が言う通り古典が面白ければやる人はいるだろう!」
と、思われる方もいるかもしれないが、古典が面白いのと専門に研究していくというのは全然別問題だし、古典が好きだからと言って古文・漢文がスラスラ読解できるわけじゃない。
そもそも私自体「古文・漢文の文法学習」は基本的に嫌いなのだ。大学院の同期や先輩は「好き・楽しい」と言っている人もいたけれども、要するに古文の学習はほぼ語学学習なので、英語の勉強も他外国語(ドイツ語・アラビア語)の勉強も好きじゃない私としては毎度頭を抱えていた。大学院では「古文は読めて当然」で話が進むので、必修どころの話ではない。ほぼ古文ネイティブにならないといけない。そのためには大学のうちには高校よりも古文に慣れておかなくてはならず、そのためには高校のうちに古文の基本は修めていないといけない。もちろん、たとえ高校で習っていなくても大学で一から学べばいいのだが、それができるのは一部のすごい熱意のある人だと思う。
何かを「やりたい」と思ったとき、その思いの強さには個人差がある。なんとなくやりたい~何を犠牲にしてもやりたい、まで。「なんとなくやりたい」レベルのときに、基礎的な知識があるかないかは非常に重要だ。知識がほとんどなかったら、「やっぱりいいや」となるのも少なくないのではないだろうか?
まあそういうわけで、古典を専門に学ぶ人がどんどん少なくなっちゃうんじゃないかなーと個人的には懸念しちゃうわけだが、まったくいなくなるわけではないだろうから、そこはあくまで私個人の懸念として書き置いておく……。
②社会に出てから役に立つ・立たないで必要か不要かを決めるのは疑問。
そもそも論かもしれないが、高校で勉強するのは大学入試のためではない。そして、大学の入学試験を受けるのはその内容を社会の役に立てるためではない。
もちろん、将来的に大学に合格したり、社会の役に立つことにつながったりすればよいことだが、達成したとして完結するものではないし、そうならなくたって良いことなのだ。
それぞれ、「勉学」というまっすぐ延ばされた線路の途中にある駅のようなもので、「高校の学習内容=大学入試の役に立つ知識」「大学の入試の内容=社会の役に立つ知識」ではない。これは、きれいごと、理想論と言われるかもしれないが、教育の根っこには理想論があるべきである、と個人的には思う。
そういう点では、「現実社会の役に立つか否か」で必要か不要か論じるならば、「学校教育」というもっと大きな観点から論じる必要があり、古文・漢文が要るか要らないかだけに用いる話ではないのである。
極端な話、それなら家庭科や保健体育はとっくに必修科目になっているべきだろう。
似たような例で引き合いに出されやすいのは数学の微分・積分あたりだろうか。(理科社会は割となんでも役に立ちそうな気がしてしまうのだが……)
要するに、「現実問題として必要ないから試験科目として不要」というならば、「まずは教育全体の改革の話から始めよう、古文・漢文が不要か論じるのはそれからだ」というのが私の意見である。
まあ、これも「卵が先か鶏が先か」みたいな側面があるので、どちらを先に論じるべきかは一概に言い切れないのが難しいところだ。私個人としては、例えば必修から削るべき複数の同列候補の中に古文・漢文があるのは良いが、古文・漢文だけピンポイントに「要らない!」と言われるのはちょっと……と思ってしまうのである。
③現行の古典教育を見直す必要がある
これに関しては以前ちらっと書いたことがある。
このときは「じゃあどうすればよいか」という結論まではっきり答えが出ていなかったのだが、国語の教育実習をしたことがある身としての一意見という形でちょっと提案してみたい。
まず、高校の授業内容として文法学習が必要か不要かと言えば、必要である。中学に関しては①の内容で触れたとおり、読解だけでも良いレベルだと思っている。
高校になったら、例えば動詞の活用であるとか、助動詞の分類であるとか、そういう基礎的な文法学習はやったほうが良い。問題はやり方である。
上で引用した記事で、私は以下のように書いた。
古文というものは、学習者自ら発信する機会がなかなかないので、「一方的に受けさせられている」という感覚を持ってしまうのではないかと思う。覚えたところで使わず、ただ「テストのため」に自分の中に積み重ねていくだけなので、テストの点数以外で「学んだという達成感」が得られないのが、古文学習のモチベーションがイマイチ上がらないことにつながっているのではないかと思う。
しかしながら、私たちが古文を「使ってみた」ところで、「通じる」と判定してくれるネイティブジャパニーズは現代にはいない。少なくともそうそう簡単にお目にかかれない。
日本語や日本文学を専門的に研究している先生だって、まだ「未詳」としている単語があるのだから、使ってみたって正しいのかどうかなんてわからない。
現在の古文の勉強と言えば、あらかじめ教科書を予習し、教科書に載っている文章を品詞分解・現代語訳する、という方法がスタンダードだろう。このやり方は、古文の指導をするうえでは一番効率がよく、手法として道筋ができており、入試の練習になる、などのことから、特に変える必要もないと判断されてきたのだと思う。つまりは無難ということだ。
ここに各先生のさじ加減で、+αの学びが加わる。私の学校の先生は、習った部分の内容を生徒に寸劇させた。これは、楽しかったし、具体的な場面として頭に入ってきたので私としてはかなり好きなやり方だった。
英語などの外国語は、外国人の先生と話したり、留学して現地の人の中で生活してみたりすると、自分の学んできたことが通用するかどうかハッキリわかって、モチベーションが上がるということがある。
しかし、ここで書いた通り「古文・漢文」というのは、そういうことができない。漢文も古代中国の言葉だし、そもそも漢文と中国語も別物だ。
古文は語学学習なのに、「生きた言葉」ではないのだ。
この矛盾が、気持ち悪いのである。「役に立たない」と言われる要因もここにある。
やる意味が分からないから、やる気もなくなるし、つまらない。こうして古文学習、そして「古典」という大枠が嫌われていく。ここを解消するには、学習時に何らかの「手ごたえ」を与えていくしかないと思う。
以前一例として挙げたのは、「日常生活に古語を紛れさせてみること」。 英語でいうところの「ルー大柴技法」であり、最近なら「すゑひろがりず技法」とも言えるかもしれない。
完全な古語で日記を書く必要はない。「習った古語をピンポイントに使って文章を考える」という作業をすれば、能動的な学習ができていると言える。テストじゃないので、見ないで書く必要はない。普通に、辞書や単語帳を眺めながら考えれば良い。例文を挙げるならば、
・今日は朝寝坊しちゃったから、とく行かなきゃ。(とく=早く)
・帰ったら古文の予習か。たいだいしいなあ。(たいだいし=面倒だ)
という感じ。現代語に古文を混ぜるのは、マドンナ古文単語の例文にもあるので、参考になると思う。ただ、単語帳にある例文と違うポイントは「自分で作ること」。そして、「生活の中に使えそうなシーンを見つけること」だ。
こういう学習をしていると、現代語と似ている単語や、現代語と反対の意味の単語も関連付けて覚えやすいのではないかなぁと思う。
あとは、古典の中に出てくるセリフを集めるという勉強法も提案したい。
セリフ、というのは漫画でいえば吹き出しの中の言葉だ。そこには登場人物の感情があって、もしかすると、現代の私たちと似たような内容のことも話しているかもしれない。セリフから勉強するというのは、古典を身近に感じることにつながるのではないだろうかと思うのである。
これも、「生活の中に生きる言葉」という観点で考えた学習法である。この場合は「当時の生活の中に生きる言葉」を体験するという意味合いの方が近い。
ただ学校の先生視点で考えると、学習指導要領に決められた指導内容に加えてこれらの+α学習までやるのは非常にハードルが高い。学校の先生というのはただでさえやることが多いし、加えて国語教師というのは、現代文・古文・漢文をすべてやらなくてはならないので、これもまた大変なのだ。
だから、これに関しても「学習指導要領」の内容から改革する必要があるのではないのかなと思うのである。
……と、個人で言っていても実際に変えることは難しそうだから、いずれ具体的な問題ややり方の説明など、何らかの手段で個人的にまとめて提示したいなと思う。
最後に ~古典を学んでなんの役に立つか~
気が付いたらここまでで5000字以上書いていた。
いろいろと述べてきたが、私は古典は「必要」だと思う。ただ、中身のことを考えると、確かに変えるべき場所はあるので、学習の内容は改善する必要があるだろう。
結局古典を学んで何の役に立つのか、と問われれば、答えは色々あるだろうけれど、基本的には本を読むのと同じで「人生に迷ったときの答えが見つかることがある」ということだと思う。
そのときにならないとわからないので、具体的に「ここ」と指し示すことができないし、もしかすると使わないかもしれない。けれど、膨大な古典の中に、現代に共通する悩みや、事件や、生き方はたくさんある。
『徒然草』にこんな言葉がある。
ひとりともしびのもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、
こよなう慰むわざなる。
夜に一人、明かりの下に本を広げて、昔の時代の人を友にするのは、このうえなく楽しいものである。
というような意味である。
鎌倉時代の兼好法師から見たら、平安時代の清少納言や紫式部は「見ぬ世の人」……それこそ教科書に載っているような、昔の人なのである。であるけれども、兼好法師は昔の人が残した文章に親しみを感じ、「友」であるように感じた。
これは、今だってそうだろう。私たちも、兼好法師を「友」にできるのだ。
古文の読み方を知っていれば、通訳を挟まなくても、その当時の言葉をそのまま見て、ニュアンスを解することができる。
通訳は正しく理解するために必要だけれど、その言葉を言葉のまま聞きたいと思うときもあるだろう。そんなとき、ほんの少しでもそれができると本当にうれしいものである。
古文は、昔の人と現代の私たちがつながる「架け橋」のようなものである。だから、古文の学習は「必要」なのだ、と私は思うのである。