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しあわせの、しわよせ

去年の今頃は鴨川のほとりでピクニックができるくらいの陽気だったのに、何だか今年は寒々としてます。
雪の多い年は楽しいって思う瞬間と、うんざりっていう気持ちが混在して変な気持ちになります。
子供と大人の中間地点にいるってことなんでしょうか。こんなことを思ってる時点でまだまだ子供なのかも。。

地元に帰ると高校の時の友達とかと会う機会が増えます。僕は地元からそんなに遠くない場所で一人暮らしをしているので、割と周りに地元の友達が多いんですけど、高校からの友達も、大学からの友達も、みんな気の合う人たちばかりで、自分は周りの人間関係に本当に恵まれているなと感じながら、地元の図書館の横を歩いていました。

最近は、就活がいよいよ本格的に始まりそうな時期と、自分のやりたい活動のスタートが色々重なったこともあり、やや心が疲れている気がします。基本的に僕はやることが増えると、それが楽しいことであったとしても気疲れしてしまいがちなタイプなので、今はまさにその状態に陥っています。

こういう時は、誰かと話をしたくなります。ただ、こういうややネガティブな話題がメインの会話に付き合ってくれる友達って意外と少ないなっていつも思うわけです。(そういう時はもう思考がネガティブよりになってるから尚更それを感じている節もありますが)
僕の場合、大概同じ人にヘルプミーをするようにしてます。彼は普段は真面目な話とか、中身のある会話をあんまりしない、ちょけたやつなんですけど、こっちが悩みを打ち明けたり心が疲れてる時はめちゃくちゃ共感してくれて、話を聞いてくれるんです。なかなかありがたいやつです。 

ふつう、人のネガティブな話をずっと聞いてるとうんざりして、もういいよってなりそうなものですが、彼はそういうネガティブな感情を全部聞いてくれた上で、僕が弱いことを受け入れてくれて、その上で僕の魅力を見つけてくれます。そんでもってそれをちょっと照れながら僕に伝えてくれます。まじありがてえ。謝謝。

だから、心が疲れた時は、かなりありがたい存在で、この人にだけは安心して何でも話せちゃうなって勝手に1人で安心しちゃうんです。

そういう人、誰にでもいるんじゃないでしょうか。それは友達とは限らないかも知れないけど、家族だったり、恋人だったり、全く知らない人だったり。

そうやって安心を与えてくれる友達がいて、僕は本当に幸せだなと思うわけですが、その一方で、不安も生まれてきます。それは、彼を失ったら自分は終わってしまうんじゃないか。話聞いてくれる人がいなくなっちゃうんじゃないか。という不安です。

その相手が安心できて居心地がいい存在であればあるほど、同時にその友達を失いたくない。失うのが怖いという感情がセットでやってきます。これはもう避けようのないことだと思います。

安心するための場所を得ると、安心を手放せなくなって、その場所を失うのが怖くなって不安になるというジレンマ。こんな感情を抱いていることにふと気がつきました。

でもこれってすごく自然な感情で、何にでも言えることだなぁとも同時に思いました。
すっごい楽しみな予定があったら、その日まで頑張れるけど、その予定が雨で無くなったりしたら楽しみにしてた分、ショックもおっきくなります。

財布にお金がたくさん入っていればいるほど、無くした時のショックは増えます。

この、感情の起伏、幸せと不幸せの二面性が、巷で言う「人生とんとん説」とか、「幸せと不幸は同じだけある」と言う言葉の根底にある気がします。

僕みたいな、少しのことで色々考えてしまう性格の人は、その感情の振れ幅が特に大きいんだと思います。すごい楽しみなこととか、大好きな友達とか。大切なものを感じている時間が充実していればしているほど、失う恐怖も膨らみます。この恐怖が何故に生まれるのかが今までよく分からなかったので、気に病んでしまったりすることが多いんだと思います。
今日こうして言語化したことで自分の中でもある程度納得することができました。

多分、こういう思考的な問題は、治そうと思って治せることでもないし、そもそも治す必要も、治すこともないようなことなんでしょうけど、まずは、こうして悩めるってことはそれだけ幸せも感じているはずなんだよなぁって思うことから始めたいなって思いました。

悩めることも、悩みを打ち明けられることも、幸せがあるからこそなんだと思いながら、自分の気持ちと、周りの大切な人と、これからも付き合っていきたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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