note習慣化からの脱出
世間一般では「いいこと」とされるものにも、「わるい反面」がある。
要はバランスよくってことだ。
「note投稿しろ」という強迫概念
noteを書くことで失ったものがある。
「自由な時間」だ。
以前はマンガを読んだり、ゴロゴロしたりしていた時間。
それをそっくりnote作成にあてるものだから、夜自由に過ごす余白は無くなった。
大多数にとってこれは「note習慣化」「note毎日投稿」と称され、「いいこと」とされている。
もちろん私にとってもいいことだらけだった。
自分の投稿にコメントがつく、スキが増えていく、考えがまとまる……
その反面、note習慣化は着実に私の体力を奪っていったのも事実だ。
書くという選択も、書かないという選択も大事
noteに想いをまとめて投稿するというのは、
「書くことを選択する」
ということだ。
これまで書いてこなかった私には、これが「やる」という選択肢として浮上していた。
しかし、note投稿が習慣化した今は。
「noteを書かない」
という新たな選択肢が浮上してきた。
note習慣化する前はグレーアウトしてたボタンだ。
なるほど「noteを書く」ことはいいことに違いないが、「書かない」ことも選択肢にはいるのだ、と気づいた。
以前の記事でも書いた、「毎日投稿に疲弊する自分」に気づいてからは、noteを書くことがルーチンワークになっていた。
思い切って「書くのをやめる」選択肢をとる。
これも「note習慣化」と同じくらい大切なことだと思う。
最強の形態:書いてても書いてなくても元気です!
note毎日投稿は私を確実に強くしてくれた。
ではnote毎日投稿の先には何があるのか?
さらにパワーアップした自分に出会うには?
それは、「note毎日投稿してもしてなくても元気な人」になることだと思う。
noteは自分の考えを纏めて発信するためのツールでしかない。
そのやる、やらないに縛られているようではまだまだ、ということだ。
同じことはランニングや読書など、日々の習慣づけが大事なこと全般に言えることだと思う。
ランニングが習慣化して健康になった!
けど、ランニングしていない自分に罪悪感を覚えるようになった。
今では走らなきゃという思いに押されて走っている。
走る気分でなくても走るのは辛い……
こういう人、結構いると思うし、私だってそうなってた時期が確かにあった。
習慣を依存や脅迫にしないために。
私は私でいるだけで素晴らしいんですよね!くらいのポジティブ思考、身に着けたいです。