『あなたの心』に私は生き続けたいから写真に『私』を乗せてあなたに届ける
いずれ来る死のために生を写す
昨日フォロワーさんがこんな記事を書いていました。
いやもう読んでビックリ。
以前から私が思ってることとほぼほぼ同じ考え方でした。
これは彼の言葉ですが
「私の目には世界はこうやって見えている、ということを発信するため」
もうまんまこれです、私も。
以前も書いた通り、彼とは使ってるカメラから何から共通点が多いのですがなるほど、確かにシンパシー感じるわけだと思いましたw
ただ私の場合一つだけ付け加えることがあります。
それは
自分が死んでいなくなった後、
『この人にはこの景色がこう見えてたんだな』と思ってもらうため
です。
記憶に留めてほしいから記録に残す
私は現在40歳ですが、昔から長生きしようという気がまるでありません。
まあその割に身体が健康になるよう努めたりしてはいますがw
ただ基本的に世の中や、生きるということに執着がない。
と言うより『早く人生を終わらせたい』と考えています。
勘違いしてほしくないのですが、『死にたい』わけではなく『早く終わりたい』ということです。
↑ この記事あたりを読んでもらえると伝わりやすいのですが、ここまで生きてくるのに本当に色々なことがありました。
成人してからもですが、主に幼少期~青年期までにです。
そのため私は今生きている人生を【一度死んだ後のオマケの人生】だと思っています。
だからある意味パっと終わってもいいやと常々考えています。
こういう事を書くと、残された家族に対して無責任だなどと言われそうなのですが、「確かにそうだけどこればっかりは変えられないし変わらないんだ」としか言えません。
日々の生活に楽しいことが要所要所あっても、全体としては『とにかくしんどいし苦しいし疲れた』のです。
数年前までは40歳がいい引き際だとずっと思っていました。
実際今その年齢になって、今後どうするかどうなるかはちょっとハッキリ言えない感じになっていますが。
ただ出来るだけ早めに、【自分の手で】人生を終えられたらそれは何より幸せなことだろうと思うのです。
人は生まれる場所、環境、時代、親といったものを選べません。
生きていく過程で「どうして自分なんか産んだんだ」と思っても最早どうしようもないわけです。
その後の道は努力などである程度変えられるでしょう。
しかし、同時に努力だけでは駄目なことも理解するはずです。
運やタイミング、環境も揃って初めて変わっていきます。
そんな人間が唯一自分でコントロール出来ること。
それが『自らの手で人生を終わらせる』ことではないか、と。
どんなに酷い環境に生まれ醜悪な人生を歩んだとしても、引き際だけは美しくありたい。
美しく消えるために生きてる間は努力する、という逆説的な思想かもしれません。
淋しがりの遺したもの
そんな想いを持ちながら日々生活しているのですが、この世から去ってそれで終わりでいいとは思っていません。
存在が消えても、人の記憶には在り続けたいし忘れないでいてほしいのです。
死は受け入れられても、人の記憶から消えて二度目の死を迎えることはとても寂しく哀しいのです。
そのために。
私はカメラを向けてシャッターを切っています。
自分の眼が見た光景を写真に残すため。
そしてその光景に自分のその時の感情や気持ちを乗せるため。
楽しい光景が淋しく見えたのならそのように。
淀んだ景色がキラキラと見えたのならまたそのように。
そのためなら別にどんなカメラでも、どんな撮り方でもいい。
セオリーや常識も無視したっていい。
そうやって撮った写真が自分の中でいい写真であり、伝えたい写真になっているのだと信じて。
例え上手くなくても、人の心を揺さぶり記憶に残る写真を撮っていきたい。
そして叶うのなら私の存在を、写真を見た人の心に留めてほしい。
これが私の写真を撮る意味と理由。
一枚、また一枚と、私の記録を遺してゆく。
読んで下さりありがとうございました。