小説「海と毒薬」遠藤周作 感想

著者 遠藤周作

 戦時中、医学的な調査を目的に生きた人間を解剖するということが、この作品の要となっています。その解剖に関わった人間達の良心や倫理の問題もありますが、解剖されるのは自分ではない、という絶対的な意識の上で、その残虐な行為に至ったと言えます。人は他人の痛みや苦しみを、決してほんとうには自分のもののように感じてやることはできないというのが、この作品の根底の一つにあると思うのです。生きたままの人体の解剖という狂気の沙汰は、そうした他人の苦痛は実感として自分のものとなり得ないということによって可能にしたのです。
 登場人物に戸田という医師がいます。戸田には極端に他人の感情への共感性が欠けていて、自らの手記にもこう記します。

はっきり言えば、ぼくは他人の苦痛やその死にたいしても平気なのだ。それらの一つ、一つにこちらまで頭をかかえるわけにはいかないのだ。

あなた達にもききたい。あなた達もやはり、ぼくと同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。

 医師であるはずの戸田が、患者や遺族たちの心情を推し量ることができても、なお自分をそれらから遠く離して考えるということは、非常に利己的で特異な人間であると思うかもしれません。しかし戸田が問いを投げかけているように、程度の差はあれ、戸田の言う無感動というものが人間の普遍的な本性ではないでしょうか。道徳や倫理、神や宗教など、表面ではどれだけ取り繕っても、やはり人は自分のなかに他人に対するどこか突き放した絶望的な冷たい視線というものを持っているはずなのです。他人の痛みに対する無知、他人の苦痛に対する無理解。確かに人は自分のものだけでなく、他人の苦痛まで背負いこんで生きていくことはできません。その点では戸田のような人間の生き方こそ典型であるとも言えます。ここに人間の克服しがたいジレンマがあるのです。
 弱者への愛には、いつも殺意がこめられている、と安部公房は言いました。その愛とは、自分の健全性が保証されている限りにおいて、という限定的なものにとどまる愛にすぎません。ゆえにその愛には、いつでも他人に対する殺意が込められているのです。痛みや苦痛が人を殺すのではないのです。とうとうそれらが人に黙殺されるときに、人は人に殺されるのです。




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